強すぎたブルース・リー

「ブルース・リーって、なんで死んだの?」
「さあ…」
「麻薬だってよ」
「へえ、そうなんだ…」


 小学校高学年の頃、友人らとこんな話をしたことがある。まだ、ブルース・リーよりジャッキー・チェンに熱を上げていた頃だ。死因についてはまた別項で述べたいと思うが、1980年代当時、日本にはジャッキー・チェンブームが到来していた。月に一度ぐらいはジャッキーのカンフー映画が「水曜ロードショー」等で放映されるほどで、翌日の教室ではその話で持ちきりになった。「蛇拳」の型を真似るヤツ、「木人拳ごっこ」をするグループ、中華街で買ったカンフーシューズを履いてくるヤツが(それは私だが)毎日必ずいた。とにかく強いものに憧れる、強くなりたいと願う少年にとって、新しいヒーローは、ガンダムではなく等身大の男・ジャッキーであった。

 そんな中、時々リー・リンチェイ(ジェットリー)ブルース・リーの映画も放映されていた。当時リンチェイはまだ若くて地味だったし、ブルース・リーは、小学生だった私にとっては「すごいけど、もう死んだ人」という印象が濃かった。新作が公開されたり、テレビで違う作品が放映されるたびに、一番目立つのはやっぱりジャッキーだった。よく近所の文房具店にジャッキーのブロマイドを買いに行ったが、たくさん並んだジャッキーのブロマイドの中に、ブルース・リーも何枚か混ざっていた。ただ幼心にも、ブルースの肉体が凄いことは分かったのだろう。ジャッキーのブロマイド5枚に、ブルース・リー1枚の割合で買うことがあった。


少年には怖いイメージが強すぎた「燃えよドラゴン」

 その10年ほど前に「燃えよドラゴン」が放映され、ブルース・リーの本やグッズは、ブームが去った後も、ジャッキーチェングッズの中に埋もれながらも密かに生き残っていたから、その存在はまだ根強いものがあった。そんな状況だったので、時々放映されるブルース・リーの映画も必ず観た。まあ、ジャッキーの映画じゃなくても、カンフーものなら何でも良かったのだろう。親父もカンフー映画は好きで、よく一緒に観ていた。


「ブルース・リーは、最初から強いからあんまり面白くないね」


と親父はよく言った。私もその通りだと思っていた。ブルース・リーは強すぎて、大抵は敵を簡単にやっつけてしまうのだ。当時のジャッキー映画の特徴として、最初は弱いけど修行して強くなるというパターンが多かった。それに、ジャッキーのコミカルなキャラクターとストーリーが受けていた部分もあったと思う。対して、ブルース・リーには「死」のイメージも手伝ってか、内容も暗いイメージがあった。今見ると決してそんなことはないのだが、きっと、代表作の「燃えよドラゴン」のクールなイメージが強すぎたのだろう。肉体やアクションは「凄い」と思ったが、大ファンになるまでには至らなかった。ジャッキーと違い、等身大の存在に見ることができなかったのだろう。テレビの中のヒーロー・ウルトラマンや仮面ライダーのような感覚で見ていたと思う。 

 私が中学を卒業する頃になると、ジャッキー・ブームもすっかり過ぎ去っていた。ジャッキーも「脱・クンフー宣言」をして現代劇を撮り始めるようになっていたし、私も色々と他に趣味もできたから、ジャッキーにだけ熱をあげることはなくなった。もちろん、ジャッキーの新作はかかさずチェックしていたが、かつてのような憧れの対象というより、ファンとして観るだけの存在になったのだと思う。


関根勤のひとことがきっかけに

 1996年、私が深いブルース・リーファンになるきっかけが訪れた。私はその頃、すでに社会人であり、雑誌の編集者になっていた。あるとき、タレントの関根勤氏にインタビューする機会があった。私は関根勤氏のことは「ちょっと頭のいいコメディアン」という印象しかなかったので、会ってみて随分と紳士的で礼儀正しいことに驚き、感心してしまった。インタビューが進み、映画の話になった。関根氏は大の映画ファンである。
「一番好きな映画は何ですか?」と質問すると、関根氏は
「好き…というか、一番多く観た映画は
『燃えよドラゴン』なんですよ」と答えた
「ほほう、ブルース・リーですか」
私はちょっと意外に思いながら言った。そういえば、関根氏は格闘技通でもあるから、なんとなく納得しながら。

「19歳の時に、兄に連れられて観に行ったんですけど、興奮してどうやって家に帰ったのか覚えていないぐらいでした」その時の興奮を思い出すように、関根氏は熱く語った。

「ブルース・リーの動きは見たことのない速さだったし、圧倒されました。その時は風邪をひいていたんですけど、熱なんか吹き飛んじゃった。翌日から同じ映画館に何度も通って、1日3回見ましたね。全部で33回は見たんじゃないですか?」

そのあたりの詳しい話は、関根勤のサブミッション映画館(社会思想社)という本に載っているので興味のある方は是非。話を聞いて、私ももう1度ブルース・リーの映画を観てみたいと思った。そんな中、WOWOWで「ブルース・リー特集」が上映されたのである。このタイミングの良さはブルースの導きかもしれない。

 久々に見るブルース映画は、ストーリーこそベタでいい加減な部分も多いが、その素晴らしい演技とアクションは当時のままに輝いていた。躍動するブルースの姿は、幼い頃に見たものよりも強烈に、私の目に飛び込んできた。やはり、大人になって映画の観方も変わったし、格闘技も見るようになっていたから、その凄さを再認識することができたのだ。とくに気に入ったのが「ドラゴンへの道」だった。録画して何度も繰り返し見た。それだけでは飽き足らず、近所のレンタルビデオ店に行って「ブルース・リーの生と死」「ブルース・リー神話」といったドキュメンタリー映画を借りてきた。こうなると、映画だけでなく、ブルースの人生や哲学にも興味が出てくるのである。


武道家・ブルースリーを知る

 また、タイミングの良いことに(笑)確かその頃、日本テレビの「知ってるつもり?!」でブルース・リーがとりあげられたのである。同番組では、ブルースが決して、ただの映画スターではなく、優れた武道家であったことを強調し、資料映像とともに証明していた(また、3年ほど後に「宮本武蔵とブルース・リー」というテーマで似た内容を再度放映していた)。

 アメリカ時代にはクンフーの道場を経営し、数多くの弟子がいたこと。学生ボクシングの大会で、3年連続優勝したチャンピオンを中国拳法で簡単にKOしたこと。公式戦ではないが、喧嘩や他流試合では負け知らずだったこと。強すぎてスパーリングをするにも相手が嫌がったこと。アメリカで開催された空手の世界大会で、片手の親指と人差し指で腕立て伏せをして見せたり、模範演舞を披露したことなど、新鮮な驚きがあった。 


毎日トレーニングをかかさなかった


大勢の人々に武術を指導したブルース

 それでようやく分かった。ブルース・リーのアクションが迫力に満ちているのは、決して演技ではなく本物の動きだったからだと。もちろん、映画だからかなり誇張された動きになってはいるし、カメラが捉えきれるようにわざと動きを遅くしている部分もある。映画では強敵の息の根をとめる時は、打撃技ではなく関節技や絞め技でとどめをさしている。すごく実戦的だ。

 なにより、今日PRIDEなどの総合格闘技で使われているオープン・フィンガーグローブを世界に先駆けて「燃えよドラゴン」の冒頭(サモハン・キンポー戦)で使用していたのは、自身でスパーリング用に開発していたためである。30年も昔のあの時代で「打つ、投げる、極める」という格闘技の三要素を理解し、実践していたのは凄いことといえよう。映画のキャストにも、一部本物の武道家を使っていたのは、ブルースと対等に動ける人が条件だったためだ。プロレスのショー的要素でも、カンフーの舞踊的要素でもない、本物の動きが、ブルース・リー映画には入っているのだ。



ブルース・リーが考案した、
オープンフィンガーグローブ


サモハン・キンポーを相手に関節技を極めるブルース

 ところが、ブルース・リーは世界がその凄さを認めた時には、すでに世を去っていた。アメリカ時代には人種差別のために冷遇され、故郷の香港に帰国。その香港でスーパースターになり、掌を返したようにアメリカ映画界が彼を求めたときには、もう遅かった。彼に続けといわんばかりに、世界にカンフー映画ブームが巻き起こり、雨後の竹の子のごとくブルース・リー作品を真似た映画がつくられた。しかし、いくら真似をしても誰もブルースのような存在にはなれるはずはない。ジャッキー・チェンも、当初はその中の1人に過ぎなかった。ブルースの後継者と期待されてシリアスな演技をしたが失敗し、コミカル路線で行って成功したのである。「ブルース・リーの存在があったからこそ、今の自分がいる」とジャッキー本人ものちに話している。


 その後、ブルース・リーのことは、時々ビデオや雑誌などで目にするものの、特に気にすることもなかったが、2000年になって、未完に終わった「死亡遊戯」の完全版「死亡的遊戯」が日本とアメリカで制作・上映されることになり、私のブルース・リー熱は再燃した。(死亡的遊戯オールナイト上映の模様はこちら) その頃になって、ようやくインターネット上では、多くのブルース・リーファンがHPを公開しているのに気づいた。私がネットの世界に入ったきっかけは、三国志やリングスだったので、正直それまでブルース・リーには手が回らなかったのだ。


 とまあ、すっかり出遅れてしまったが、香港のブルース・リー邸を訪れたのをきっかけに、この「小龍神殿」をつくることにした。ここを訪れる人が、少しでもブルース・リーに興味を持ってくれたなら、何よりの喜びである。もちろん、すでに熱心なブルース・リーファンの方とは、これを機に様々な交流ができればと思っている。(2003年3月1日 哲舟)


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ブルース・リーと日本食