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格闘王国といわれるオランダのカリスマ的存在。現役の頃はサンボ、柔道で欧州屈指の強豪として名を馳せ、多くの門弟を抱える。第二次UWFの大阪球場大会(1989年)に初来日し、前田日明と対戦。その後、前田と意気投合し、リングス旗揚げの際は全面的に支援した。リングス・オランダを設立するとともに、自らもディック・フライらを引き連れて旗揚げ大会からマットに上がる。 ファイターとして活躍する一方、指導者やマッチメーカーとしてもリングスに尽力。初期の頃はジェラルド・ゴルドー、ロブ・カーマンなど一流の格闘家を次々と参戦させる。かつてK-1で最強を誇ったピーター・アーツも、日本初登場はリングスのマットであった(92年の対アダム・ワット戦、2ラウンド肘打ちでKO勝ち)。オランダの選手の多くは、酒場などでバウンサー(用心棒)を兼ねているが、ドールマンはその顔役という一面も併せ持っており、パイプ役としてこれほどふさわしい人物もいない。 92年の第1回メガバトルトーナメントでは見事優勝を飾る。このとき準決勝でUWF時代に敗れた前田と対戦し、膝固めで勝利した。だが、決勝のディック・フライ戦に見られるように、当時の対戦相手は弟子のオランダ人が多く、相手の遠慮もあって白熱した試合は少なかった。既に50歳近い年齢のため格闘家としてのピークが過ぎていたことは本人も自覚していたことだろう。ただ、アンドレィ・コピィロフやグロム・ザザなど寝技系の選手とのグラウンドにおける攻防は非常に見応えがあったし、ドールマンはそのほとんどの試合で一本勝ちしている。リングスで敗れたのは初黒星を喫したヴォルク・ハン(93年)、前田日明(93年の再戦)、山本宜久(94年)の3人だけである。 1995年4月には週刊プロレス主催の「夢の架け橋」(東京ドーム)にも出場し、前田と最後の試合に臨んだ(ヒールホールドで敗戦)。そして同月のヨープ・カステル戦を最後に引退し、後進の指導に専念することになった。この年50歳であった。 そして、リングスが解散した今でもその看板を守り、年数回ペースでリングスの名を冠した大会を開催し続けている。「私は今もマエダの連絡を待ち続けている」と語っており、前田が活動を再開した暁には、再び惜しみない協力を約束するだろう。 実はリングスが旗揚げして間もない頃、オランダ政府はフリーファイト、格闘技の拡大には消極的で、国内での自由な格闘技イベントの開催すら難しい状況だったという。彼は政府と折衝を重ね、ついにそれを認めさせた。今ではそうした格闘技イベントの開催はもちろん、オランダ人格闘家の海外への参戦も珍しいことではなくなった。ドールマンはまさにオランダ格闘技界の父である。(2006.2.19) |