|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
当時はロシアではなく、リングス・ソビエトの選手として参戦。ソ連の選手が来日して格闘技の試合をするだけでも、入国審査やら身分照会やらで大変だったようである。正直ハンの参戦までは、リングスにおけるサブミッションはプロレス技の延長を見ているようだった。この神秘のベールに包まれていたコマンドサンボの「輸入」により、リングスの選手をはじめ、日本人選手全体のグラウンド技術の向上が促進されたように思う。現在、PRIDEのリングで戦うエメリヤーエンコ・ヒョードルや、セルゲイ・ハリトーノフら、ロシアの選手はこのハンの技術や影響を色濃く受け継いでいる。(2006.2.19)
「KOKルールになる以前は、勝利を第一には考えていなかった。自分の技術を駆使して、いかにファンを楽しませるかということにプライオリティーを置いていたんだ。観客は我々の試合を見るために時間を割いて会場に足を運び、お金を払ってくれる。彼らは私たちを尊敬してくれているんだ。その尊敬に対して試合で尊敬を返せなかったら、尊敬してくれる彼らのことを考えないようでは『プロ』とは言えないじゃないか」 「デビュー戦でただひとつ覚えているのは試合中にパコージンが私に向かって”マエダを殺すな!”と叫んだ言葉だけだ。リングスは私の人生そのものだね。私はリングを降りる日が来ても、私の弟子を通じてリングスに貢献していきたい」 この台詞からも分かるとおり、ハンは旧リングスルールを愛し、またその中でトップにも立ち、不動の地位を確立した。前田や田村との技術の攻防はまさに芸術であり、リングスの財産である。そんな彼が久々に来日し、KOKルールでの試合を行うにあたり、こう語った。 「私はマエダの兵士なんだよ。将軍が決めたことに従うのが兵士の務めだ!」 40歳という年齢の問題や怪我のために出場機会も減り、かつてのサブミッションも影を潜めたが、戦場の狼は決して過酷なルールを恐れない。 「私は旧ソ連軍でも最も厳しいパラシュート部隊にいた男だよ。国家警察軍としてコマンドサンボを使わざるをえないような、危険な目にもあっているんだ。 私は喧嘩をするために生れてきたような男だからね(笑)。私は子どもの頃から喧嘩をすることに大きな喜びを感じていたが、困ったことに40歳になってもそれが変わらないんだよ」と笑う。 第2回KOKトーナメント準決勝では、アントニオ・ロドリゴ・ノゲイラに判定負けしたが、ノゲイラも最後までハンの関節を極めることができなかった。試合後、そのノゲイラに対してこんなメッセージを贈っている。 「狼からミノタウロへ。優勝おめでとう。今日は君が最強の男だと認めよう。私は歳を取りすぎてしまったので、もう君と逢うことはないかもしれない。しかし、私の魂を受け継いだ弟子たちが近い将来君を困らせるだろうからそのときはよろしくたのむ。ロシアの狼 ヴォルク・ハン」 ハンの他に誰がこんな言葉を吐けるだろうか。言葉の裏には、まだまだやる気と悔しさが滲んでいるような気がしてならない。(2001.11.15) |
哲坊 1992年 対
ディックフライ 戦(裏アキレス腱固め○) アントニオ殿 2000年 対
ブランドン・リー・ヒンクル戦
ちょっと古いですが、当時のリングスでは夢の対決でした。打撃最強VS寝技最強。4ダウンを奪われた直後の逆転劇に大興奮。フライも全盛期の頃でした。ピンチになっても最後に逆転の関節技を極める、ハンのスタイルが確立された試合でしたな。
KOK導入後、度重なるキャンセルで「ハンは逃げた」と噂される中組まれた久々の試合。KOK初チャレンジであったが、巧みな関節技で一本勝ち。三角締めをパワーボムで叩きつけられながらも腕拉ぎ三角固めで勝利をもぎ取ったハンを見て涙が出そうになった。