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UWF解散後、1991年4月にリングスを旗揚げ(初興行は5月)。その直前、袂を分かった高田延彦はUWFインターナショナル、藤原喜明は藤原組をそれぞれ旗揚げしている。前田に付いてきた日本人選手は長井満也ただ1人であった。リングスでは自身の練習と試合に加え、後進の育成とともに自ら選手の発掘にあたる。その結果、オランダやロシアをはじめ、グルジア、ブルガリア、オーストラリア、イギリスなどで活躍する優秀な格闘技選手を次々とリングスマットへ参戦させた。また、経営者としてもランキング制の導入、リングスネットワークを駆使したトーナメントを実施するなど、リングスを画期的な興行、団体に成長させていく。 旗揚げ第2戦目(1991年8月)の直前に左膝靭帯を損傷。以後常にその痛みに悩まされ続け、彼のウィークポイントともなる。初期の頃、膝に白いテーピングを巻いた姿は痛々しかった。99年2月21日、引退試合で人類最強の男・アレキサンダーカレリンに挑み敗れたが、その偉大な功績は不滅である。 結果として、リングスでの最終的な戦績では勝率8割をキープした。「前田が敗れた男」はフライ、ハン、ドールマン、コピィロフ、田村、カレリンの6人。いずれも名だたる格闘家たちであった。前田自身は、VTやKOKの試合を行うことなく引退してしまったが、満足にトレーニングを積んで、常に万全なコンディションを維持できれば、あるいはリングスという枠から離れて大海へ飛び出して行くことも可能だったかもしれない。 リングスという団体を創ってしまったがゆえの束縛、格闘家として致命傷ともいえる膝の故障。団体の運営と怪我の治療。満足にトレーニングすらできないジレンマも前田自身の現役生活のスケールをやや小さなものにしてしまったのは事実であろう。VTのリングでのヒクソン・グレイシー戦、プロレスのリングでのジャンボ鶴田戦は幻のままで終わってしまったが、引退した今となっては是非もない。正直、経営者になってからの前田は、私はあまり好きではない。しかし、前田の今後には注目したい。前田が動く限り、格闘技界も確実に動き続けるはずだ。(2001.11.15)
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哲坊 1997.3.28 対 田村潔司
戦(7分54秒 裸絞めで勝利) アントニオ殿 アントニオ猪木の顔面にハイキックを入れた瞬間 いち殿 対ドン・ナカヤ・ニールセン(逆片エビ固めで勝利)
打倒・前田を目標にリングスへ参戦した田村と、それを迎え撃つ前田。10年越しの、意地と意地のぶつかり合い。何度観ても燃えます。同年、再度両者は戦って、田村が前田越えを果たすわけですが、その時には前田は引退を口にしており、モチベーションが下がっていたので残念。
(試合ではありませんね)
UWF代表となり猪木戦に臨んだ藤原を卑怯な手を使い仕留めた猪木に対し怒り爆発の前田。試合後リングに飛び込み猪木のアゴへハイキック一閃。「アントニオ猪木なら何をしても許されるのか!!」前田らしい率直な意見であった。
あれほど緊張感あふれる異種格闘技戦はいまだかつて見たことがない!技術的な面ではパンチに対する対応など色々不満なとこもありましたがそれを補って余りあるぐらいスリリングな展開だったと思います。勝った瞬間、(セコンドの)高田の喜び方がとても印象的でした。前田さんの地位を不動にした試合だと思います。