本頁は復刻(一部改定)版につき、記載されている内容・データは作成当時のもので、現在の解釈や事実とは異なる場合があります。

長井 満也 (ながい みつや)

 

得意技

右ミドルキック

主な実績

 

通算戦績

旧ルール 67戦33勝32敗1分1不戦勝 勝率.508

スタイル

シュートボクシング、総合格闘技


戦力分析
パワー

 

 

 

 

 

 

6

  

 

 

 

スピード

 

 

 

 

 

 

  

7

 

 

 

テクニック

 

 

 

 

 

 

 

7

 

 

 

ハート

 

 

 

 

 

 

6

 

 

 

 

打撃

 

 

 

 

 

 

 

 

8

 

 

寝技

 

 

 

 

 

 

 

7

 

 

 

身長:187cm 体重:100kg

生年月日:1968.11.10

出身地:北海道砂川市

血液型:B型

デビュー:1991.8.1

好きな食べ物:ステーキ、中華

 

本名・長井和弘(みつや)。17歳でシュートボクシングを習い、戦績は7戦5勝2敗。その後UWFに入門、練習中に首の骨を折って再起不能を宣告されるが、奇跡的に回復。しかし、負傷が癒えたばかりでデビューもかなわないままUWFが解散となり、一時はUWFインターに残留した。その後、「一番自分のやりたいことに近かった」と前田日明に再度弟子入りし、リングスへ移籍。旗揚げ第2戦目の91年8月にデビューし、ヘルマン・レンティングを破る。187cmと恵まれた体格のうえ、シュートボクシング出身で打撃も得意なことから前田の後継者として期待された。確かにこのとき、日本人は前田と長井の2人だけで、後輩の山本と成瀬も入門したばかり。自然ナンバー2の座は約束されたものであった。

その後ディック・フライ、ウィリー・ウィリアムス、ジェラルド・ゴルドーなどの強豪とも次々と対戦。彼らのようなビッグネームと渡り合うには実力不足ではあったが、日本のナンバー2として戦い続け、徐々に成長していく。第1回メガバトルトーナメント(92年)にも出場し、1回戦で正道会館の佐竹雅昭と戦うがKO負けを喫した。この試合は「佐竹が顔面パンチ(反則)をした」と長井側がアピールし、物議を醸す。スロービデオでは佐竹の掌底が長井のテンプルを完全にとらえダウンを奪っているが、よく見るとその前に1発だけ拳による打撃が当たっており、非常に難しい判定であった。結局、判定は覆らずに佐竹の勝利となったが、佐竹は胸部の負傷を理由にその後の試合を欠場し、二度とリングスマットに上がることはなかった(翌年K-1に主戦場を移す)。

その後、前田が膝の手術で長期欠場に入ると、メインイベンターとしてハンに善戦し、まったく歯が立たなかったディック・フライなどにも勝ちを収めるなど、着実な成長を見せる。得意のキックも冴え、全日本キックの大会にも出場するなど、格闘家としての幅を広げる。しかし、元来物静かで優しい性格であるがゆえになかなか大ブレイクには至らない。そのうちに後輩の山本宜久がめきめきと頭角をあらわし、94年から95年にかけて大活躍し、エースの座に近づく。トーナメント決勝で前田と戦ったのも山本であった。95年3月、山本と直接対決の機会があり、このときは先輩の意地を見せてレッグロックで勝利する。しかし、この直後山本は「バーリトゥードジャパン」に出場、ヒクソン・グレイシーと戦ってさらに名を挙げた。

さらに状況が一変したのは96年、田村潔司の参戦である。長井にとって田村は第2次UWFの先輩でもあり、頭の上がらない存在でもあった。田村は参戦するやその華麗な戦いぶりでリングスに旋風を巻き起こす。そして11月、長井は田村と直接対決したが、実力の差を見せ付けられて完敗。田村は山本、そして後に前田をも破りエースの座を確立していく。長井は完全に遅れをとった格好になり、次第に発言権も失い微妙な立場に追い込まれていく。もちろん、長井とてリングスの生え抜きとしてそれなりの地位も人気もあったが、ファンの反応は正直なものであった。97年になると、田村を頂点に、ナンバー2が山本、それに次いで長井、高阪、成瀬といった序列が出来上がっていった。

そして、いつの間にか師匠である前田との間にも溝ができていた。前田もこの頃、田村や山本をしきりに持ち上げ、長井をないがしろにしていたような観がある。長井もそんな自分の不甲斐なさに自信を喪失していったのかもしれない。そして問題の97年11月20日を迎える。この日、長井は前田日明との4年ぶりの試合に臨んだ。田村にエースの座を奪われた悔しさもあっただろう、前田が自分の方を向いてくれない悔しさもあっただろう。長井はそうした思いを前田に精一杯ぶつけた。

だが、試合展開は地味なものだった。わずかに沸いたのは、長井がえげつなく前田の左足を攻め、前田がたまらずエスケープしたシーンぐらいである。長井は度々前田を追い込んで行くが、前田は山本や田村との試合のようにヒートアップせず、淡々とファイトを続けた。それも長井の劣等感を刺激したのか、長井が試合中に「見たか!俺は蹴りだけじゃねえんだ!」と叫ぶ一幕もあった。やがて16分が過ぎた頃、上に乗った前田が長井の口を手でふさぎにかかり、強引に極めに行こうとした。この反則すれすれの行為も、レフェリー北沢氏は気付かないのか制止しようともしない。苦しんだ長井がうつ伏せになったところに前田のスリーパーが決まり、試合は終わった。

その後、両者はリング中央で何か言い合っていたが、突然前田が長井の頬を張った。このとき、前田が「連れてこい!」と叫んだことは有名である。長井は何を言い、何が前田の逆鱗に触れたのだろう。長井がリングスを去ったのは、それから数ヶ月後のことである。その後の長井はキック界で挫折したが、プロレスラーの道を選んでそこそこの成功をおさめた。本人にとってはそのほうが幸せなのだろう。(2006.2.19)

 

 

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