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オランダではグレコローマン・レスリングの選手として活躍、87〜90年にはオランダ選手権で4年連続優勝したが、91年には審判の態度に腹を立てて殴りつけ失格。盛り場のバウンサー(用心棒)をつとめる傍ら、キックの試合でも実績を残すトータルファイターである。リングスには旗揚げ大会(91年5月)から参戦。その試合で同門のマルセル・ハールマンスを右ハイキックでKOし、鮮烈デビューを飾る。その後ディック・フライにはKO敗けしたが、一進一退の打撃戦を展開して人気を集めた。打撃技に加え、アマレス仕込みの反り投げ(フロント・スープレックス)も得意。リングス・ジャパンの若手に「ピータース越え」なる目標に挙げられる存在であった。 だが、その後は精進を怠ったのか徐々に精細を欠き上位選手との戦いではことごとく敗退する。93年、同門ピーター・ウラとの打撃戦では一方的に攻められ、いいところなくTKO負け。94年に山本宜久に裸締めで敗れた後は長井や高阪にも白星を献上。96年には田村のリングスデビュー第2戦の相手をつとめるが、まったく歯が立たずに敗れた。初期に見られたスピード、突進力は陰を潜め、無気力なファイトを見せる場面も多くなり、自然出場回数も減っていく。リングスの進化に追随できず成長を止めてしまったのは寂しい限りだ。(2000.6.1) リングス消滅後、1度だけPRIDEのリングに登場したのには驚いた。だが案の定、ヒース・ヒーリング相手に何もできず48秒でタップ負け(本当に何もしなかった!ヒーリングもこのときが初来日だったのだが…)。予想以上のかませ犬を演じてくれてしまった。(06.2.19)
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