本頁は復刻(一部改定)版につき、記載されている内容・データは作成当時のもので、現在の解釈や事実とは異なる場合があります。

田村 潔司 (たむら きよし)

 

得意技

左ロー・ミドルキック/腕ひしぎ逆十字/前蹴り

主な実績

メガバトルトーナメント96準優勝、97優勝
初代・第3代無差別級王者

通算戦績

旧ルール 40戦28勝9敗3引分2KO勝 勝率.757

KOK 11戦6勝5敗(一本勝ち数1)

スタイル

レスリング、キックボクシング、サンボ


戦力分析
パワー

 

 

 

 

 

 

6

  

 

 

 

スピード

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

10

テクニック

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9 

 

ハート

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9 

 

打撃

 

 

 

 

 

 

 

7

 

 

 

寝技

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9

 


身長:180cm 体重:87kg

生年月日:1969.12.17

出身地:岡山県岡山市

血液型:AB型

好きな食べ物:関西風うどん

 

新生UWFで89年5月にプロデビュー。その直後のデビュー2戦目で、急遽前田日明と戦うことになったが(当初の前田の相手が欠場したため)、膝蹴りでKO負け。眼窩底を折って長期欠場に追い込まれた苦い経験を持つ。91年にUWFが解散すると、高田延彦率いるUWFインターナショナルに移り、めきめきと実力をつけ若手のエース格として活躍。95年にはK-1のリングに上がり、パトリック・スミスとのバーリトゥードマッチに臨み、ヒールホールドで見事に勝ちを収めている。96年6月にUインターを離脱(この経緯は長くなるので省略)、新たな戦いの場を求めてリングスに参戦。そのデビュー戦でディックフライを裸締めで破る。続いてウィリー・ピータース、モーリス・スミスに相次いで勝利するが、9月の札幌大会でヴォルク・ハンにリバース・アームロックで敗れた。

そのまま10月からのメガバトルトーナメントに参戦し、2回戦で長井満也を、準決勝で山本宜久を倒し、先輩としての意地と強さを見せ付ける。この2人との試合は、まだ田村がリングスの一員として完全に馴染んでいなかったこともあり、多分に他流試合の要素を含んだガチンコ色の強いもので、独特の緊張感と盛り上がりを見せた。とくに山本は飛びつき腕十字で負けたあと、握手もせずにさっさと引き揚げてしまったのが印象深い。田村の参戦により、それからの日本人同士の対戦は大いに盛り上がったものである。後に高阪、坂田、成瀬、金原、山本健一(喧一)とも立て続けに戦い、その全員に勝っている(高阪には99年1月、3度目の戦いにして一本負けを許した)。

翌年1月の決勝では再びヴォルク・ハンと戦い、前回を上回る白熱の好勝負を演じるが、アキレス腱固めでまたも敗れた。が、このときに悔し泣きする姿で、ファンのハートをがっちり掴んでしまった。実はまだ、このときのリングスファンの多くも田村を外様選手とみなしていたような雰囲気があった。そして3月、前田日明と対戦。善戦するも前田のスリーパーがガッチリと決まり、UWF時代の雪辱はならなかった。その後は、ズーエフ、ナイマンに敗れはしたものの順調に勝ちを重ね、ジャパン勢エースとしての地位を確立していく。97年9月にはヴォルク・ハンにリベンジ成功、11月のトーナメント準決勝では前田日明を腕ひしぎ逆十字で破り、ついに念願を果たした。翌年1月には決勝でイリューヒン・ミーシャに勝ち、新設された無差別級チャンピオンに輝く。田村潔司28歳、まさに一番輝いていたときでWOWOWでも彼の特番が放映されたほどだ。すでにリングスマットは田村色に染まっていた。また、個人経営のジム・U-FILECAMPを創設したのもこの頃である。

99年10月からリングスはKOKルールを導入。オープンフィンガーグローブを着用してのスタンド顔面パンチ有り、ロープエスケープ廃止、一度のダウンで即KO負けといったノールール路線へと移行していく。同時にそうしたルールに精通した各国の強豪選手が続々と参戦、しかもリングスは明確に体重差による階級分けを導入していなかったため、体格的に劣る日本人選手は苦戦を余儀なくされた。田村とて例外ではなく、以前のように鮮やかに勝利を飾る姿は見られなくなる。また、UWFの申し子である田村にとって、新ルールは彼の信念から離れたもので、モチベーションを保つのも難しかったようだ。加えて長くメインイベンターとしての出場を続け、休むことも許されなかった田村は心身ともボロボロになりかけていた。

そんな状況下でも2000年2月のヘンゾ・グレイシーとの試合では見事に判定勝ちし、「グレイシー越え」を果たす。だが、それ以降もレナート・ババル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなど体格に勝る相手との戦いが当たり前のように組まれ、田村にとってリスクの高い試合にも関わらず敗退を重ねる。ついにはギルバート・アイブルに敗れて王座を明け渡してしまった。そして2001年4月のグスタボ・シム戦を最後に、指の怪我もあって田村は欠場に追い込まれ、そのままリングスを去ることになった。その後、PRIDEのリングでヴァンダレイ・シウバに挑むのは10ヶ月後のことである。そのブランクの長さが、リングスで受けたダメージの大きさを物語っていたような気がした。(2006.2.21)

サイン

99年5月22日有明大会でタリエルから王座奪回した夜、築地の居酒屋にて。

貴方が決める、田村のベストバウト

哲坊

1997年1月 対 ヴォルク・ハン戦(アキレス腱固め ×)
ハンに連敗&トーナメント優勝を逃した悔しさで涙していたのが印象的。ほんと、旧リングスルール&UWFルールでは絵になる男でした。

アントニオ殿

1995年 対パトリック・スミス戦(55秒 ヒールホールド○)
Uインターから干されていた田村が進退を賭けて臨んだ試合。
初のVTながら秒殺勝利。涙ぐむ田村はかっこよかった!!

ダイチャンスリー殿

1996年 リングスデビュー戦の対ディック・フライ戦(裸絞め○)
20kg以上の体重差をものともせず、ダウン後のタックルからチョークで電光石火の勝利。いやあ、興奮した。


 

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