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90年UWFに入門し、練習生となるがアゴの骨折もあって退団。その後リングス第一回入団テストに合格する。常に前に出るファイトを信条に、長井、成瀬の良きライバルとして初期のリングスを盛り立てる。94年、クリス・ドールマンを下すなど徐々に頭角を現し、その年のトーナメント準決勝では師匠前田と壮絶な師弟対決を繰り広げる(前田とは4度戦うが一度も勝てなかった)。95年、ヴァーリトゥード・ジャパンに出場。ヒクソン・グレイシーと20分に及ぶ激闘を展開するも敗れる。96年、移籍してきた田村潔司との直接対決では技術的に敵わぬと見てエグい反則攻撃をしかけるが、奇襲の飛びつき腕十字に敗れた。それでもリングス生え抜きの男として98年7月に前田のリングス引退試合の相手をつとめ、その後継者に任命された。
しかし、KOK以降は一向に精彩を欠き、ブラッドコーラーに肋骨をへし折られ、ジェレミーホーンの肩固めにタップし、ブランドンリーヒンクルに絞め落とされ、セームシュルトに膝蹴りでKOされ…と散々な結果に終わる。そして10年間リングス一筋で育った男が、21世紀早々にフリー宣言をして脱退。一時期、憲尚(のりひさ)と改名したが元に戻している。PRIDEデビュー戦では師匠・前田のテーマ曲を使用した挙句、シウバ弟に秒殺KO負け。最高の晴れ舞台でも結果を出せず、山本はどこへ行くのか。(2001.11.15) |
哲坊 1995年4月 対
ヒクソン・グレイシー戦(3R
裸締め×) アントニオ殿 同じくヒクソン・グレイシー戦 哲坊 2001年12月23日 対ジャイアント・ノルキア戦 PRIDE
初勝利 やんぶ殿 1994年6月10日 対グレッグ・ダグラス戦(5R無効試合)
やはり、これでしょう。技術的には全然かなわないまでも、気持ちで負けないひたむきさと無鉄砲さが、あの頃の山本にはあった。輝いていた。
ルールの盲点をついた攻撃で、日本人としてヒクソンを最も追いつめたのは山本。船木は圧倒的に負けたし、高田は問題外。タップしなかった山本は負けてもエライのだ。
ついに勝ちました!相手が立ち技しかできない奴だったから…という野暮は言いっこなしで(笑)素直におめでとうといいたいですな。
凄い減量までやったアメリカの柔術家とのフリーファイト戦!!お互いルールが良く分かってない中の激闘!!男前やったなぁ・・・あんときは・・・。