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ハン、コピィロフとはアマチュア時代からのライバルであり、彼らに並ぶサンボの達人。中学・高校時代にフリースタイルレスリングを経験、20歳からサンボを始める。6年間に渡って全ソ連選抜チームの一員として活躍した。84年にはベネズエラで開催されたワールドカップで優勝を飾る。「禁じ手なし」の裏サンボ(ロシアンサンボ)をマスターしており、ハンの使うコマンド・サンボとはまた違った種類の技を使う。ロシアでは、日本における戦後の力道山のような英雄であり、自らスポーツ学校を経営し、多くの門下生を従える。 リングスには93年7月から参戦し、トドロフ、ザザ、コピィロフを立て続けに撃破。11月にはヴォルク・ハンをも破った。これがその年のトーナメント2回戦であり、準決勝に駒を進めるが、ビターゼ・タリエルにはTKO負けした。その後もリングス・ロシアの中心的人物として長くリングスマットで活躍。前田道場にもコーチとして出張し、ジャパン勢にその技を教えていたこともある。ライバルのハン、コピィロフにはリングスマットにおいて勝ち越している。田村潔司にも勝っているが、前田日明には3戦全敗。他に高阪、山本、長井といった面子にも勝ちを許しており、戦いぶりには安定性をやや欠いた。 リングス・ジャパンの解散後、ズーエフも選手としては引退したが、リングス・ロシアはそのまま活動を続け、エカテリンブルクで後進の育成に力を注ぐ。PRIDEで活躍するセルゲイ・ハリトーノフなどの優秀な選手を育てあげ、自らもセコンドとして度々来日している。そして2004年には、総工費12億円をかけて150人が宿泊できるホテルも備えた複合スポーツ施設「リングス・センター」を完成させた。 2005年8月、そのオープン記念としてリングス・エカテリンブルグ大会を開催。ハリトーノフ、アターエフ、ミーシャ、ラバザノフ、コーチキン・ユーリーが出場し、日本からも金原、高阪が参戦。前田日明も招待され、ズーエフ以下の旧友と再会するなど大成功をおさめたという。この活況を見る限り、リングスロシアは当分安泰を保ちそうだ。(この大会の模様はZSTのサイトで写真が見られる) (2006.2.19) |