徳川 家康
(とくがわ いえやす)

江戸300年の礎を築いた傑物


身長/156cm(推定)
ウエスト110cm前後で恰幅の良い体格
生没:1542〜1616年(74才)
徳川幕府初代将軍。もとは三河の豪族・松平広忠の嫡男。豊臣政権下では五大老筆頭。秀吉死後は名実ともに天下の覇者となる。

特徴:倹約家 負けず嫌い 
好きな食べ物:麦飯

武 勇

8

 

 

戦 術

9

 

知 略

8

 

 

カリスマ

8

 

 

人 望

8

 

 

外 交

9

 

内 政

10

能力見解
家臣の誰もが持ち上げられない大鉄砲を使いこなせる腕前と怪力の持ち主。剣術の達人でもある。野戦を得意とし、小牧・長久手の戦い、大坂の陣、関ヶ原の合戦といった大一番にも強い。戦いでは常に謀略、調略を駆使し、滅多なことでは戦場で不覚をとらなかった。

信長、秀吉がなしえなかった長期政権確立、300年・15代にわたる徳川幕府の基礎を築いた。残酷な一面も知られるが、あれだけの兵力を動員でき、勝ち残れたのは、天下人としての器量がなせる業であろう。政治面でも先見の明があり、諸大名との駆け引きは絶妙である。時節を待つ忍耐強さも光る。乏しい土地だった江戸を見事に発展させ、現在の東京の基盤を作り上げた。

 

関連映像
関連史跡
ドラマ「関ヶ原」
岡崎城
 
浜松城
 
掛川城
 
駿府城
 
関ヶ原古戦場

家康の心身を癒した熱海温泉


戦国ファンが斬る! 家康 評

ナイフ 殿

私も家康は大好きです。臆病かと思えば、敗戦必至の野戦に打って出るし、天下人の秀吉に最後まで屈せず領国を守備するという、ちょっと一筋縄ではいかない人ですよね。世界中で戦争が絶えない中、日本では300年の太平が続いた。健康に気を使いまくったということから見ても、信長以上に神から遣わされたとも思える不思議な人物ですね。(03.12.28)

宇宙一の弓取り 殿

「葵 徳川三代」の家康は意外に短気な性格がよく出ていてよかったなあ。あの老獪さも幼い頃の苦労と大原雪斎の教育のおかげ。初代東海一の弓取り・今川義元も家康の才覚を見抜いて優遇していたんですよね。義元もぜひ掲載してください。お願いします。(04.2.8)

劉備玄徳 殿

こんな人、ホントに居たのか?と思うほどすごいイベントを【連発!!】している家康はだいすきです。僕たちの学校の課題で『歴史』がでたのでこのホームページの内容を使っていいですか?(使わせてもらうと、情報収集がらくなので・・・。本当にわがままですみません(04.2.8)

哲坊

「情報収集がらくなので」というのはずるいですよ。感心しませんね。学校の課題なのだから、図書館などに行き、自分で調べる努力をしなくてはいけません。それと、「劉備玄徳」など歴史上の人名は、あまり使ってほしくありません。今回は特別に掲載しましたが、本来はボツにしますので、次回からは気をつけてください。(04.2.8)

姫宮由衣 殿

私の中で「徳川家康」という人物は、人生の師とも言うべき偉大な人物です。始めて読んだ歴史的人物の本が、徳川家康であったというのもあるのですが。あの、非凡な凡人…とでも言うのでしょうか?家康の「人から学ぶ」と言う姿勢に、堪らなく好感が持てるのです! 勿論、事実はどうで有れ、歴史的に豊臣家を葬り去った点など、人としての欠点があることは、私にも判ります。只、「人間」として、生き方に学ぶところが多い…そんな所に、家康の人としての大きさを感じる!…って言うのは、いくら何でも美化しすぎでしょうか?

叉、信長始め、権力者と言う地位にありながら、非人道的行い(無意味な大量虐殺)をしていないところにも、好感が持てます。(ん〜、やはり美化してますかねぇ?) そう言えば、「人の一生は〜」で始まる有名な「遺訓」ですが、家康自身の作ではない…との噂を聞きました。皆様がどうお思いかは判りかねますが、私には「どうでもでも良い事」に思われます。「あの遺訓の秀逸なところは、家康の人生を語っているところであって、家康本人作かどうかは、叉、別の話である」…と、以前どこかの作品に書かれていましたが、私もそう思います。(歴史的価値等を考えれば、叉違ってくるのでしょうが…)

所で、私は戦史が好きです。三国志などの壮大な歴史小説を読むと、年甲斐も無く心が踊ります。しかし、その一方で私は、殺すと言う言葉が嫌いです。自分の大切な人間がいなくなる事が、どんなに残酷な事か…考えただけでもゾッとします。それを大規模で、しかも人間の手で行う戦争と言う行為は(矛盾してますが)大嫌いです。人の人生を奪ったところに、一体何が生まれると言うのでしょうか…? 私は人を殺した事がありませんが、考える事は出来ます。しかし、何度考えても自己満足以外、何かが得られるとは思えません。第一、世界的に見ても、勝者が敗者に行う行為は、想像を絶するものがある…と思います。(まぁ、一概には言えませんが) そして、少なくともそんな下劣な行為を、日本から(一時的とは言え)排除した家康は、やはり「英雄」と呼ばれるに値するのでは無いでしょうか。(04.5.30)

哲坊

自分も家康、嫌いではないです。しかし、彼の人気がイマイチなのは、第一には豊臣家ほか多くの大名家を滅ぼしたことが原因であり、自分もどちらかというと豊臣方の人物を贔屓目に見てしまいます。ただ、豊臣家をそのままにしていれば、徳川家の安泰はなかったので、政策としては間違っていなかったのでしょうな。「遺訓」、その通りだと思います。家康の作ではないと思いますが、家康という人をよく現した傑作です。「泣くまで待とう不如帰」の一節同様に。(04.5.30)

マタザ 殿

駿府城のお堀の真ん前に住んでいる者です。家康、絶対、嫌われ者だと思っていたのですが、意外にみなさんが、それなりの評価をしてくださっていることに驚きました。確かに、自分も豊臣方の武将(特に幸村や左近)は好きなので、家康が嫌いという気持ちもわかるのですが。ただ、やはり、300年の太平の世の中を作るため、ありとあらゆることに考えをめぐらせた家康はすごいと思います。野戦が強かったというのもそそります。

自分は小学校2年の時に見た、大河ドラマ「徳川家康」からすごく興味もちました。あのドラマでは、茶屋四郎次郎、石川数正、本多マタザが良く出ていたと思うのですが、(カズマサは出奔してしまうまでですが・・・)マタザはあまり耳にしないのですが、あまり大物じゃないのですか?自分はマタザが大好きだったのですが・・・実は自分はあまり歴史に詳しくないので、教えていただけませんか(04.7.28)

哲坊

槍の「又佐」といえば、前田利家のことだと思うのですが…。家康家臣の本多姓なら、本多重次(作左衛門)のことかもしれませんな。他に本多忠勝(平八郎)や、本多正信・正純(弥八郎)が有名です。(04.7.28)

才蔵 殿

とにかく家康程、幼い時から人生の苦渋をなめて生きてきた武将は居ないのではないのでしょうか?今川家の人質として義元の機嫌を損じまいと努め、自分に望みの全てを賭けている岡崎衆の期待を裏切るまいと努め、独立後は武田信玄に散々に痛めつけられ、滅亡の危機に瀕し、その息子勝頼にもありったけ領土を踏みにじられた。おまけに盟友と思っていた信長には息子信康を殺されて、女房は武田と内通。それでも家康は滅びなかった。やれる事はなんでもやった。大賀弥四郎事件をでっちあげるなど、手段は選んでられない。そんな家康からすれば三成なんぞ、「ガキがピイピイさえずってらぁ」、ぐらいにしか思わなかったのでは?「秀吉亡き後、俺が天下を取るのは実力からすれば当たり前の事。豊臣家なぞは泰平を妨げるだけの、無用の長物でしかない。」これが家康の本音だと思う。(04.12.31)

いっき 殿

小説や史料価値の低い史料から引用される逸話のみが先行して、今の家康像が形成されてるから、有名な割りになかなか真の家康像が一般に認識されていない気がします。肖像画も死後かなりたってかかれたものがほとんどですし。でも、宣教師の記録に「肥満」していたと記録されてるけど、麦飯で質素な食事してる人間が何でそんなに太るんだろう??まぁ、穴をふさいだ足袋が東照宮に残ってるくらいだから、質素なのは確かだったんだろうな〜。 (04.12.31)

でも倒幕賛成派殿

「悲運の名将」というのは有り得ない。その意味で、家康以上の名将を我々は持たないのではないか。家名の存続、繁栄が至上の価値を有した時代の人物である。田村麻呂から始まり、八幡太郎義家、清盛(将ではないか?)、頼朝、尊氏、早雲、元就、信玄、謙信、信長、秀吉等々、時に信じ難い幸運を引き寄せ、圧倒的な覇業を成した名将を我々は知るが、覇権の広域性、継続性という意味において彼に優る者は居ない。勿論、後世から見ての結果に過ぎないが、近代における東郷や大山、児玉がもたらしたものが、昭和の敗戦とも捉え得る事を考えると、家康の「名将度」は日本国の有史以来、断トツ1位と言えるでしょう・・・それがたとえ、ただ一家の為のみのものだとしても・・・。(04.12.31)

DOY 殿

はじめまして。初投稿させていただきます。私も信長や秀吉同様、この家康も好きな歴史人物の一人です。3人とも生まれは決して恵まれていない、弱小大名の出とか農民とか人質生活とか・・・。でもこんな逆境においても自らの信念を持って今川から独立し、一国一城の主として再スタートをきった勇気と決断力は戦国大名としては申し分の無いものだったのかと思います。信長が本能寺で討たれ、秀吉が病死したというのは、単なる偶然ではないのかもしれません。天下人を決めたのはまさに天だったとか。ちょっと褒めすぎですかねえ?(笑

徳川幕府はその後250年も続いたわけですが、当の家康がその事実を知ったらどんな反応をするのでしょう。ここまで平和な時代が続いたと驚くのでしょうか。それともすべては計算のうち・・・?(04.12.31)

T.K 殿

世の中には家康ギライの人が多く、その多くは「豊臣を滅ぼしたから」という理由です。しかし、これは当たり前のことをしたまでだと思います。実力者が天下を取るのが戦国時代だし、そもそも豊臣秀吉も織田を倒して天下を取ったのです。それなのに豊臣秀吉の人気が家康を圧倒する理由は何なのかわかりませんが、家康も秀吉くらいの人気があってもおかしくないと思います。小牧・長久手なんかでも二万もいない徳川・織田が十万の秀吉を悩ませたのですし、天下人の素質は十分だと思います。 (04.12.31)

哲坊

信長や豊臣方の人気が高いのは、歴史上では「敗者」であり、各々がドラマにしやすいからといえるでしょう。いわゆる「判官びいき」ですな。同時代の真田幸村、違う時代では源義経(判官贔屓の元祖)や新選組なども同様で、後世の人は彼らに深い愛を注いでいます。ただ、「勝者」家康や源頼朝は人気こそイマイチでも、その事跡は揺るぎ無いものであり、しっかり評価されていると思います。(04.12.31)

知ったか三平 殿

私は徳川家康のエピソードで一番印象に残っていることは、やはり三方ヶ原の戦いですね。敗戦必至の状況でも戦いを受けた家康ですが、まんまと信玄の戦略にはまってしまいましたよね。そこで家康はなんとか命拾いをして城へもどり、ここで信玄が攻めてきたら終わりという場面で信玄はやってきませんでした。その後、すぐに信玄は病死しましたが、この戦いがあったからこそ家康が天下をとることができたのでしょうね。家康はこの時の悔しさと自らの不甲斐なさを忘れないために惨めな姿を絵師に描かせそれを戒めにしたといいます。まさに、負けて学ぶ勝者の哲学ですよね。後に家康は戦術の天才となります。また、家康は隣国(武田家)が強国であってよかったと言っています。そのおかげで、驕ることなく鍛錬を積み重ね、強い軍をつくることができたと。信玄のおかげで戦術を学ぶことができたと。まさに、時代に関係なく見習いたい精神ですよね。(05.3.23)

jun 殿

家臣に成功の秘訣は?と聞かれ「背伸びをするな、我を知る事」と言ったと聞きます。常より己の力量を良く分析し、出来る限り精一杯の努力はしても、己の力量を超える無茶な事はするな。無茶をしたいなら、力量を付けてからにしろ。簡単なようで難しく、それでいて的確な名言と感じました。やるべき事をきちっと行えば、必ず結果はついて来ますからね。 (05.7.11)

森本家康 殿

私が歴史人物で一番好きな人は徳川家康です。厳しく、過酷な戦国の世を知恵と勇気と我慢強さで戦国の世をきれいに終わらせたから。私も今生きていてつらい事が有ると家康さんの事を思いだすと生きる希望がわいてきます。家康さんの1生のほとんどが戦乱の地獄だったとおもいます。でも豊臣をほろぼしてから死ぬまでの1年たらずが天国だったと私は思います。 (05.7.11)

森本家康 殿

大阪夏の陣の時家康が豊臣家家臣である福島正則、黒田長政、加藤清正、等の者を江戸に監禁させて正解だったと思う。もし監禁させずに大阪に攻めさせたら豊臣軍にねがいりして大変な事になってたかもしれない。その者たちは関ヶ原の時に憎んでいた石田三成と違い相手がその者たちが秀吉の後の豊臣の後継者として期待をしていた秀頼であるのでその思いに引かれてねがいりしてたかもしれません。家康はその事まで計算していたのでさすが抜け目のない家康様と思いました。(05.11.19)

神君 殿

家康が家臣に言った言葉に『上を見るな、身の程を知れ』がある。背伸びせず己の力量で出来る事をし、背伸びしたければ己の力量を磨けとの意味を感じる名言だと思う。人質だった幼少からの苦渋・豊臣秀吉の臣下となり先祖代々の岡崎から北条の残党が散在する関東へ移転された辛酸や武田信玄に完敗するなど、多くの困難や辛抱を乗り越え、ひたすら着実に忍耐強く用意周到に実力をつける事に専念したからこそ豊臣秀吉亡き後、既に徳川家は確実安泰な史上最強の軍団になっていた。

家康に人気がない理由は、目立たず地味で織田信長のように注目される派手奇抜さがないからだろう。目立たず周囲が気づいた時は、徳川家は最強だった。それだけだ。伊賀忍者軍団の登用など能力主義による家臣団統制や漢方薬研究を含め知力・体力・精力絶倫などで家康自身によるレベルアップで、徳川家全体の実力を着実につけていった。家康は、織田信長のような天才でなく人から学ぶ・負けて学ぶという《生涯学習》の勉強家で非凡な凡人だと思う。(06.3.9)

十澄 殿

家臣にはあれほど厳しい信長でも、バカ息子どもはほぼ自動的に軍団司令官にしてしまう。秀吉が淀殿に甘く、秀頼をひ弱なお公家に育ててしまったのは有名な話。両英雄の息子達はそのせいでプライドばかり肥大し、処世を誤り家を潰した。家康は違う。粗暴でわがまま、家臣団といさかいばかりの信康をさっさと見捨てている。信長の強圧ばかりが強調されるが、実は渡りに舟だったのでは…。

後にも伊達政宗に操作された忠輝を切り捨てている。死後も全く許していないのがすごい。秀忠の関が原遅延は、ほぼ素人の秀忠よりおつきの家臣に責任がありそう。だが叱責されたのは秀忠ばかりであった。この冷血ともいえる子の粛清が、しかし徳川幕府の礎となったのだ。厳しき家長としての精神力は、信長秀吉をはるかに超えているとしか言いようがない。大きな意味での家族である家臣団も、ここまで公平な棟梁ならばどこまでもついていく気になるに違いない。突飛な才能やカリスマより、まず立派な家長・父親であること。こう見ると家康は本当に日本的リーダーで、徳川幕府の三百年も全く納得いくのである。(06.5.15)

u-ga 殿

家康嫌いな私ですが、彼の政治能力、野戦指揮官としての才能。決して自分の才能以上の無理をしなかったこと。そういったところがまた彼の魅力である、とも理解しています。(十澄殿に反論するような感じになりますがご容赦を)ただ信康が処断されたのは信長の指示、というよりも家康自身が決断した可能性があります。そりゃあ信長に「処分しろ」といわれたら処刑しなけりゃならん、と思いますが、ここで信康への処分を甘くすれば織田家との同盟が消える可能性もある。信康と家臣団のいさかいは事実ですが、まだ武田は滅んでいないというのに、織田家が敵になるとしたら?

「徳川という勢力」のために、仕方無しに処分した、と感じます。そして信長は別段自分の息子に(それほどは)甘くありません。長男の信忠は跡取りですので、武田攻めのときもかなりの武将をつけていますし、英才教育を施すために大事にしてた、とは思います。ですがそれは跡取りに対しての扱いとしては尋常なところでしょう。次男の信雄も、伊賀攻めの失敗のせいで「親子の縁を切ることも覚悟しておけ」と信長に叱責されてます。秀吉の息子、秀頼にしても「秀頼は賢き人だ」と家康にある程度の評価もされています。むしろ、プライドの所為で豊臣を滅ぼしたのは淀の方だと。

自らの次男、秀康に対しても最初は大変冷淡であり、よくもまあ、あんな扱いをしておきながら関が原で上手く利用した物です。しかし、そのおかげで秀忠という謹厳な後継者が誕生することになり、冷酷な決断が逆に良い方向へと向かいました。それはこの後の徳川家を見れば一目瞭然ですね。父親としても、家長としてもそれほど立派とは思えない家康。ですがそれは信長も秀吉も同じ事です。彼にとって幸運だったのは信長、秀吉という天下人の失敗をその目に焼きつけ「彼らのようにはなるまい」と自戒したことだったのかもしれません。・・・・・ですが、人気があるのをいいことに、秀吉の死後に無理やり力任せに事を押し切るようなことをした神君殿は、やはり好きになれそうにはありません・・・・(笑)。(06.8.19)

 

この人物について貴殿の一言、お待ちしております!
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