秀吉子飼いの猛将
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●晩年は気苦労絶えず 豊臣秀吉とは遠戚にあたり、同じ尾張中村に生まれる。 朝鮮出兵でも暴れ回り、戦功を立てる。 しかし、秀吉が死後は 好きな戦場を駆けまわることはできなくなり、 関ヶ原の戦いでは、文治派の石田三成を嫌い、 戦後52万石に加増され、秀頼の保護に尽力した。 そして、その2ヶ月後にあっけなく死んだ。 |
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戦国ファンが斬る! 清正 評 |
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hei 殿 |
はじめまして!楽しく見させてもらっています(^-^)。加藤清正は私のもっとも好きな武将の一人です。その豊臣家への忠誠心と猛将ぶりに惹かれました。 小説の加藤清正(海音寺潮五郎著、文春文庫)からの引用ですが<清正の死から三年、大阪の役が起こった。清正が生きていたなら徳川家はそれに踏み切らなかったであろうし、もし踏み切っても清正が入城して采配を取れば決してまけなかったであろう。大阪方が負けたのは城内の将士を信頼させるに足る貫禄と力量ある中心人物がいなかったためである。城は天下の名城である。駆り集めの浪人勢ばかりながら、冬の陣では徳川方には全然勝味はなかったのである。清正の死は、すなわち、豊臣家の滅亡だったのである。> この文で清正は名将だったんだなぁと改めて感じました。 (04.10.5) |
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才蔵 殿 |
加藤清正は猛将とは思いますが、先を見通す目は持っていなかったと思います。清正や正則達は三成嫌いが高じて東軍に組みし、家康の豊臣潰しに一役かってしまいました。三成は関ヶ原で歯がみして悔しがったと思います。「あの馬鹿どもが…。まんまと狸に利用されおって!」三成の慟哭が聞こえてきそうです。結局彼等は、私怨だけで軽々しく動き、一枚も二枚も上手の家康にいいように利用されてお払い箱にされてしまいました。燃え上がる大坂城を天国から清正はどういう思いで見ていたのでしょうか?(04.12.31) |
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天草の行商人 青木屋 殿 |
地元では清正公さんと呼ばれて非常に尊敬されています。武闘派で有名ですが民生に優れていて経済力のある大名でした。言い伝えでは熊本城築城の際も工事に参加した農民には十分な日当を払っていたみたいです。そのため明らかに一大名の居城にしては大規模な城ですが民は喜んで工事に参加し、恨みに思うものは少なかったそうです。(普通築城は民を圧迫します)関が原後、東西冷戦時代の政治的な中心人物といえます。おそらく三成を殺して自分が豊臣政権の主導権を握り豊臣家の生き残りを考えていたんじゃないかと推理します。 (05.1.24) |
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庫にだ隊 殿 |
清正公は関が原戦役後に居城の熊本城に小天守を増築し、防備を強化しました。しかし、小天守には『要塞』には不釣合いな書院が設けられており、これはもし一朝有事起こりなば、秀頼公を匿って一戦交える覚悟を示したものと思われ、清正公の豊臣家に対する忠誠心は疑い様がありません。とは言っても、三成との不仲を家康に突かれてしまう所が一本気な武辺者の弱点か・・・残念。(05.3.23) |
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どよどよどよ 殿 |
才蔵殿、清正は先を見通す目ありますよ。こんな話があります。天守閣付近に清正は木を植え曰く「この木が天守閣ぐらいの高さになった時ここは戦場になる」と言い、その後250年数年に神風連の乱が起きたとき木は天守閣まで高さに成長していた・・・というエピソードがあります。(05.11.19) |
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虎之助 殿 |
加藤主計頭清正公を慕った朝鮮人が清正公の七回忌に殉死したほどの人望があった人で、自分が前田利家亡き後の秀頼を守らなければと苦心した人でした。武断派の中でも特に清正公が他の豊臣恩顧の大名と手を組むのを家康は恐れていたといわれています。その功績は、対徳川外交や熊本城名古屋城など建築術、他にも堤防を築いたり外国との貿易などとただの武勇一点張りの将ではなく文武に優れた名将であったと思います。(06.3.9) |
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やすくん |
加藤清正はとても長い帽子(?)をかぶっていたそうで、熊本城の近くにある銅像でもかぶっています。これは加藤清正は背が低く、それを隠すために長い帽子をかぶっていたといわれています。(06.5.15) |
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Fat K. 殿 |
感情派の福島正則と違い、清正は説得の仕方によっては、徳川側ではなく豊臣側について家康と相対してたと僕は思っています。徳川側についたのは、ただ単に三成が嫌いだったというほかに、彼に対しての嫉妬もあったんだと考えてます。07.5.5 |
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海遊人 |
私は、最近熊本に行ってきまして、思いますに清正公ほど民衆に慕われている戦国武将は他になかなかいないなと思いました。昨年のNHKの大河ドラマに出た山内一豊も長曽我部元親の家臣たちを徹底的に弾圧し、禍根を残したため土佐では人気がないのは、当たり前で元々、土着の坂本龍馬などが幕藩体制を倒し、人気があるのは当然だと思いました。 清正公のように土着のものを大切に扱い、後の世のために貢献した武将は、好かれて当然だと思いました。多くの加藤神社は財力のない民衆によって建てられ奉られているのをみればおのずと、人気の高さが違うと思いました。改易にならねば、もっと熊本は、発展していたと思いました。私も清正公が好きになりました。07.12.22 |
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