真田 昌幸
(さなだ まさゆき)

天下人を手玉にとった策士


生没:1547〜1611年(66才)
別名:安房守
武田信玄配下の名将・幸隆の三男。信濃上田城主。

武 勇

6

 

 

 

 

戦 術

9

 

知 略

10

カリスマ

7

 

 

 

人 望

5

 

 

 

 

 

外 交

9

 

内 政

8

 

 

能力見解
武田家全盛期から仕えた功臣。作戦、用兵の見事さは孫子も顔負けといわれる。天下の徳川軍を相手に2度も圧勝し、真田家の名を天下に知らしめた。天下の情勢を把握し、弱小勢力ながらよく乱世を生き延びた。部下や領民には慕われたが、半年間に5度も主君を替えるなど、信義に劣る油断ならぬ人物ともみなされていた。巧みな外交戦術で強国相手によく渡り合った。駆け引きの上手さは群を抜いている。

 

戦国ファンが斬る! 昌幸 評

おみさ 殿

私は幸村殿も好きですが、父昌幸は知将としてはbRには入るのではないかと思います。堅物な人格とは程遠く、どこかこの戦国の時代を楽しんでいたように思います。ある歴史の人物が「大賢は愚に似たり」と言っているように表面に鋭さを出している人物より一見この男は何も出来ないと思える人物のほうが大きな仕事をする。昌幸は何となくそのような感じだったのではないかと思います。
だから家康に対しても2度も圧勝したのではないかと思います。表裏比興の者と言われはしたが人を見る眼力が世を渡っていく上で養われたのかと思います。(03.11.30)

森(鹿島高3) 殿

関ヶ原の折に家康から信濃一国で引き抜かれようとしたことからも真田昌幸が小大名ながらいかに天下に認められた武将であるかが分かるだろう。家康が幸村をおそれたのも昌幸の面影を感じてのもの。小大名ながら家康さえも小馬鹿にする大胆さと喰えぬ態度は本当にかっこいいです。 (04.8.23)

才蔵 殿

滅びゆく武田家が信濃に残した危険な爆弾、それが真田昌幸であり、事実この爆弾は北条、上杉を散々に翻弄し、徳川までも上田で撃破してしまう。まさに扱い方を誤ると爆発し、大怪我させられてしまう危険な存在であると思います。昌幸と言えば、表裏比興の者などといわれ、梟雄のようなイメージがありますが、落ち目の勝頼を最後まで見捨てず、自分の城にまで迎えて勝頼を守ろうとするなど、義理に厚い面もあるのです。もし自分が戦国に生きる大名であったなら絶対に家臣にしたい、頼れる武将であると思います。(04.12.31)

三郎兵衛 殿

秀吉に沼田の件で先祖の墓があるとウソを言ってまで名胡桃城をとりとめたことなど、執念深くて、領土に執着が強いし、また、家康にも2回背いている。景勝のときはもっとひどい、前に景勝に服属しながら、中途にして志を変じたにもかかわらず、これを許し、上田城の合戦で助勢し2度にわたって家康を散々に打ち破り相当な恩があるのに、景勝が秀吉にお見えするために大坂に上がっている不在中、上田合戦のすんだ後、越後に人質としてやって景勝の家臣にならせている幸村を呼び戻して上坂させ、大谷吉継に頼んで秀吉の近臣にしてもらっている。要するに秀吉に帰服したのだ。小身の豪族として、また情勢上、致し方はなかったのであろうと、弁護できないことはないが、昌幸は利に敏い、陰険な人物であったに違いない。彼の評判の良さは、二男幸村の名声の反映でしょう。(05.1.24)

びすまるく 殿

この人は表裏比興等と言われていますが、そんなことはないと思います。確かに、小国の領主としてあちこち風見鶏的になびきはしましたが、いざともなれば徳川家康を敵に回す気概があったのですから。本当のヒキョー者であれば、まずこんなことはできないと思います。また、関ヶ原の際の徳川方の伝令島田兵四郎とのやり取りなどからも、この人が利に敏かったり、陰険な人物だったとはとても思えません。(05.5.1)

ootanio 殿

信繁の人質先に代表される日和見的な動きや領土に対する強い執着も、滅びの美学を賛美する江戸的武士道からはかっこよいとは言えない存在でしょう。ただ、息子を両陣営に分けたことに代表されますが、予測できない事に対して可能な限り準備し、何があっても家を守り通した力と意思の強さは評価出来るのでは。上田城にしても戦術的状況がとても有利ではあったが、周到な準備が上田城に指1本触れさせない結果に繋がっているでしょう。(05.7.11)

おみさ 殿

三郎兵衛 殿へ。どちらかというと昌幸の方が幸村より名声は高かったのではないでしょうか?大阪の陣で、真田幸村の名声は「最後の戦国武将」として今の世に知れ渡ったものの、昌幸があればこそ幸村がいる、という図式になるのは普通の考えではないでしょうか?私は幸村をとても尊敬しておりますが、あの最後の大阪夏の陣で父のかぶとをつけ最期の戦に及んだという事から見ても、普通の父としてではなく戦国武将としての尊敬から来ていると思います。想像の世界ではありますが、子供たちのの生き方や考え方をみればおのずとその親の姿って想像できますよね。今も昔もそれは変わらない事なのではないでしょうか。それと、昌幸は関が原の戦では上杉家の恩を感じて徳川方につかなかったという見方もあると思います。歴史ですから確実にこうであったという事は私たちには出来ませんが、あの時代、利に動くのはけして間違ったものではないと思うのですが。 (05.7.11)

Chigusa 殿

表裏比興の者と言うのは、当時の時代に於いては誉め言葉だったと思います。なにしろ、まさにその表裏比興の者といえる秀吉は昌幸を表して言ったのですから。ただひとりの城主にのみ仕えるという終身雇用の考え方は、徳川の管理体制に出来上がった考え方で、当時はより良い上司を求めてそこにつくのが当たり前だったと聞きます。天下も回りモノの時代だったとか。ただ、なんとなくこの昌幸公にとっての唯一の仕えるお方は、結局は武田信玄公のみだったのではないかなと考えている次第です。(05.7.11)

夏希 殿

久々の投稿ですがよろしくです。息子幸村に比べて現代での知名度は低いですが、私は真田家一の武将であったと思っております。(昌幸>幸隆>信綱>信之>幸村>昌輝)領土侵略危機のたび巧みに従属先を乗り換え表裏比興(裏表がまるで違う油断のならぬ者)と秀吉から評されたことは有名ですし、(自分はどーやねんとか思いますが)「東西を みごろに分ける 真田縞」などと江戸川柳でも関ヶ原で東西に分かれた事を皮肉られていたりしますが、よく考えみれば松平家が今川→織田と拠り所を変えていったのとさほど変わらず、このあたりは当時の真田家の評判を落とすための徳川家の陰謀のような気もします。

私は国人領主から巧みに主家を変えるあたりが毛利元就の歩みと非常に似ているなぁと思ったり。家康軍を2度も撃退したり、北条家滅亡のきっかけ(これは秀吉の策謀という説もありますが)になったりと天下に知れ渡る名将で、大阪の陣に彼がいたら…と思うと非常に残念です。実は勝頼が信忠との戦に敗れ落ち延びた時こちらに落ち延びるようにと書状を送っているなど、私は現代の評判ほど信義に劣る人物ではなかったと思っております。(ただ、譜代でないため信用できなかったのか結局勝頼は小山田信茂を頼り裏切られてるわけですが…)余談ですが「稀代の横着者」というステキな通り名もあったりします。(05.7.11)

シアン 殿

確かに、当時の名声は真幸のほうが断然あったようです。「真武内伝」の挿話で、真幸は死に際に、「あと3年寿命が持てば、大阪に入城し謀りごとをもって武名をあげて見せるものを」といい、幸村に謀を説明します。その上で「これは、そなたには出来ないことだ」と言うと、幸村にとってたいした謀ではなかった為反問すると、「謀りごとが重要なのではない。指揮する人物が重要なのだ。将兵は指揮者が真田真幸であるということで、この謀を信じてやり遂げるのだ。その点、そなたは将として優れているが、世間には無名である。ゆえに将兵達は不安に思い、謀を失敗に終わらせる」と言ったということです。

この話は作り話であったとしても、当時の状況はこの様であったのでしょう。実際に、幸村は淀殿や大野治長などに献策を退けられていますから、加藤清正のところにも書き込ませていただきましたが、大阪には名声のある武略に長けた大将がいなかったのが敗因と言えるでしょう。(05.11.19)

袁煌龍 殿

表裏比興とは根っからの策士であるこの人にとっては何よりの賛辞では。かの武田信玄をして「我が両目の如き者」と言わしめ、その卓越した知略で徳川、豊臣、北条と言った大国の傘下を転々としつつ、自勢力を維持してきた様はいっそ痛快でさえある。だが同じ知将でもあくまで現実思考の持ち主である父幸隆や嫡男の信之とは違い彼はあくまで夢想家だった。そして天下取りと言う分に過ぎた夢想を可能と思わせるに十分な凄味の持ち主でもあった。

関ヶ原に於いて昌幸は次男幸村と共に西軍につく。別段本人は「豊臣にも徳川にも格別の恩義は無し」としている事からも、豊臣家への忠義と言う訳ではなく、まして三成との縁戚絡みの問題でも無かったのだろう。領土を維持する事を考えたなら逆に徳川についても問題は無かった筈だが、昌幸は自分が家康に憎まれている事、また自分も家康の事を激しく嫌悪している事を良く知っており、却って信之一人を東軍に着かせた方が家康の真田家への心証が良くなるとの計算もあったかもしれない。事実信之は合戦後所領安堵どころか大幅な加増も受けている。

だが何より大きな理由はやはり今一度の天下大乱だろう。秀吉亡き後天下の趨勢は家康に靡きつつあったが、もし三成が勝利したならば残るは勢力の衰えた豊臣家と、未だに虎視眈々と天下の趨勢を窺う各地の強豪達。再び天下が乱れるは必定であり、その時こそ真田が天下取りに名乗りを挙げるまたと無い機会となるとの期待はやはり大きかったのではないだろうか。だが昌幸の乾坤一擲の戦いも自分自身は徳川秀忠率いる徳川本軍に大勝利を収めた物の、肝心の関ヶ原で西軍がたった一日で敗れてしまったが為に昌幸自身の野望と共に虚しい物となる。

結局は信之の助命嘆願によって一命だけは取り留めるものの、九度山に配流となりついにはその野心を果たせぬまま、その人生に終止符を打つ事になった。「内府(家康)めをこそ、かような目に遇わせてやりたかった」とは配流先に赴く際、昌幸が吐き捨てた余りに有名な台詞だが何処か子供染みてる気もしなくはない。戦国屈指の知才を持ちながらあくまで負けず嫌いで夢想家で何処か稚拙な人柄こそが、真田昌幸と言う人物の魅力に思えてならないのは私だけだろうか?(05.11.19)

 

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