石田 三成
(いしだ みつなり)

時流に抗った正義の男


身長/156cm(推定)
武器/貞宗 正宗(刀)
特徴:潔癖 正直 華奢な体つき 反っ歯 色白
生没:1560〜1600年(41才)
別名:治部小輔 幼名:佐吉
近江坂田郡石田村出身、豊臣政権五奉行の1人。佐和山城主(19万石)

武 勇

5

 

 

 

 

 

戦 術

6

 

 

 

 

知 略

7

 

 

 

カリスマ

7

 

 

 

人 望

6

 

 

 

 

外 交

8

 

 

内 政

9

 

能力見解
若い頃は秀吉に従い各地を転戦。戦上手ではないが、晴れの舞台関ヶ原では東軍主力を一手に引きうけ、6千の兵で善戦した。

頭は切れたが、謀略を嫌い、臨機応変に行動できなかった。そのため、家康の策にことごとくはまる。また、インテリ派ゆえに加藤清正や福島正則ら武闘派の諸将に嫌われた。しかし後世に名高い関ヶ原の合戦を引き起こし、西軍の事実上の総大将となったのも事実。

大阪城下の堤防工事など治国の才に秀でる。善政を敷き、民からは慕われた。家康は関ヶ原のあと、家中の風紀が乱れたことを「わしに三成のような家臣がおれば」とつぶやいた、といわれている。

 

石田三成の生涯
1560年
(永禄3年)
三成誕生

近江国坂田郡石田に生まれる。幼名佐吉。
寺小姓をしていた15才の時に
羽柴秀吉と出会い、その家臣となった。
この時有名なのが、三杯の茶のエピソードである。
長浜の城主となった秀吉が城下の寺に立ち寄った時に茶を所望した。
佐吉が出した茶は、
1杯目は飲みやすいようにぬるくたっぷりと、
2杯目は少し熱くして量は半分
3杯目は舌の焼けるほどの熱い茶であった。
「小姓のくせに小賢しい」と評す人もいるが、
ともかく、秀吉は佐吉を気に入って側に置いたのである。

転戦

1577〜1582年、秀吉に従い、各地を転戦。
この間、槍働きもあったが、
専ら外交交渉面で手腕を発揮、頭角を表す。
三木城攻め、鳥取城攻め、備中高松城攻め
本能寺の変後の秀吉の中国大返し、山崎の戦いなど。

1583年
(天正11年)
賤ヶ岳の合戦

一番槍の功名をあげる。
その後、直江兼続に書を送り、秀吉・上杉の同盟を成功させる。
水口4万石の城主となり、
島左近を召し抱える。
1585年、従五位下治部少輔に任命される。
8月、秀吉に従って越後の落水城に赴き、上杉景勝、直江兼続と会見。
1586年6月、堺の奉行となる。
翌年、秀吉の島津攻めに従い、三成は新納忠元に降伏を説得。
戦後、博多町奉行に任命される。

1590年〜
1598年
小田原攻め〜
朝鮮出兵

1590年(天正18年)3月、秀吉の小田原攻めに従う。
5月、秀吉と佐竹義宣の謁見を斡旋する。
佐竹、大谷、真田らと館林城、忍城攻めに参加。
10月、浅野長政とともに奥州へ一揆鎮圧に赴く。
近江佐和山19万石の城主となる。(異説あり)
1591年4月、南部九戸の乱鎮圧に軍監として赴く。
1592年(文禄元年)朝鮮出兵。
肥前名護屋で
大谷吉継らとともに日本軍の総奉行に就任。
1596(慶長元年)6月、明の使節が来日。
講和決裂し、再度朝鮮出兵始まる。
1598年8月、秀吉没す。三成は朝鮮撤兵の諸将出迎えのため、博多に赴く。

家康と対立

1599年(慶長4年)1月、徳川家康が秀吉の遺命に背き
大名間の婚姻を行う。三成、
前田利家らが問い詰め、軍備にかかるが、
浅野長政らの仲介で和睦。 家康は秀吉死後、野望を隠そうとせず
天下統一に向けて動き出した。
豊臣恩顧の三成としては許せなかったのである。
3月、利家没す。
三成は
加藤清正、福島正則ら武断派の襲撃を受ける。
同じ豊臣恩顧の武将同士でも、官僚派の三成は清正ら武断派に嫌われていた。
三成はこれを逆手に取って、敵対関係になる家康の伏見屋敷に出向き、
かくまってもらう。実は三成を一番必要としていたのは家康だったのである。
家康にしてみれば、今、三成が死ねば、
豊臣家をつぶすチャンスはもっと先のことになってしまう。
三成はこの機転で一命を取り留めるが、
その後佐和山に隠遁させられる。家康が一枚上手であった。

1600年
(慶長5年)
関ヶ原の戦い

6月、家康、会津の上杉征伐に出陣。
三成、親友
大谷吉継に家康打倒の策を打ち明ける。
吉継は三成の不利を説いて諌めたが、友情のために共に戦うことを決意。
7月17日、家康打倒の檄文を発する。
8月5日、味方に付いた信州上田の
真田昌幸に激励の文を送る。
9日、兵6000を率いて出陣、大垣城へ入る。
9月15日、関ヶ原の合戦。西軍敗れ、三成敗走。
21日、伊吹山中を逃亡。近江古橋村で田中吉政に捕らえられ、
10月1日、六条河原にて処刑される。

市中を引き回された際、三成は「水が飲みたい」と言った。
周りの衛兵は「水はない。柿ならあるぞ。食え」と
近くの木から柿をとって三成に与えたが、三成は、
「柿を食うと痰が出るので嫌だ」と断る。

衛兵たちは「これから死ぬ人間が痰の心配をしてどうする」と
笑ったが、三成は
「下郎。英雄とはどんな境遇に陥ろうとも、
生き延びる望みを捨てぬ。だから儂は痰を嫌うのだ」
と言い放った。
『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』である。
結局はあっさりと処刑されてしまうのだが、
三成の性格をよく表す最後の名台詞であろう。

関連映像
関連史跡
 ドラマ 関ヶ原
関ヶ原古戦場
 秀吉
 

関連書籍
「関ヶ原」

司馬遼太郎著(新潮文庫、上中下巻)

「石田三成」

徳永真一郎著 著(PHP研究所)

「影武者 徳川家康」

隆慶一郎著


戦国ファンが斬る! 三成 評

哲朗 殿

最後まで不正を許さず19万石の身上で256万石の徳川家康と戦った石田三成が大好きです!(04.2.8)

Dr.ポー 殿

現代風にいうと豊臣政権の有能な官僚であり、優秀なサラリーマン。佐和山では、有能な経営者です。見習うところは多くあります。朝鮮の役、関が原と企画力がすばらしいです。http://www11.plala.or.jp/rekisidayo/mitsunariTOP.htm (04.3.8)

yu-you 殿

長いものに巻かれなかった将として、かなり好きな人物です。よく関ヶ原では家康の謀略に対して後手後手に回ったと言われていますが、ほぼ互角の知的闘争を繰り広げていたというのが個人的な印象です。 (04.5.30)

けち汁 殿

漫画の影響でかなり脳内で美化されていますが…。頑固一徹でひたすらに熱い心は好きです。実は鉄砲の腕もなかなかだったって意外性もイイですね。 (04.6.22)

鶏一番 殿

「三成は戦下手」の評価の元になった忍城攻めですが、実は秀吉の指示だったそうです。これを聞いて頭に浮かんだのは、「三国志」の北伐での孔明の指示に背いた馬謖です。戦争ではセンスの無い人は指示に従おうが、背こうが、駄目なんだなと思い知らされますね。天下取りにこういう人は必要ですが、なまじ、長生きしたのが運のツキですかね。家康と本多正信みたいに秀吉と一緒に死ねば本人にとっても幸せだったのではないでしょうか。(04.6.22)

すかんち 殿

石田三成は、僕の中で、最も尊敬する人物の一人です。大谷吉継との仲を深めた茶会の話や、その人間性に惚れ込みました。ほとんどの武将が、家康に傾倒していく中で、豊臣を守ろうと奮闘努力したその様は、美しすぎます。あの時、小早川さえ、裏切ることが無ければ、、と、いつも、関が原に行く度、悔しさを感じます。(04.6.22)

にーやん 殿

はじめまして!僕は当初三成という人物は、正直あまり好きではありませんでした。理由は他愛もないことですが、地元が九州なので、三成と仲の悪かった加藤清正ファンだった‥‥ただそれだけです。でも、数年前のNHK大河ドラマ「葵」を見て、それまでの三成イメージが180度変わりました!

正義・仁義・愛‥そんなくさい信念を、自分の為では無く、全て豊臣家の為に掲げ、捧げた「男の中の男・石田三成」に、すかんちさんと同様に惚れ込みました!当時、数ある秀吉恩顧の武将の中で、本当に豊臣家の将来を考えていたのは、三成だけだと僕は思います。清正も正則も豊臣家を想う気持ちは強くあったとは思いますが、三成だけが、将来の豊臣家の驚異となる大敵(家康)を見据えて行動していたのですよね。その大局を見る戦略眼は、ほとほと感心させられます。関ヶ原で西軍が勝ち、三成が豊臣家を盛りたてて行く世が見てみたかったです。(04.8.23)

東京さえ子 殿

歴史上の人物を、あまり「好き・嫌い」で判断したくないのですが、でも好きです(笑)。家康に対抗せずに黙っていれば、徳川政権の何かおいしいポストにありつけたかも知れないのに、変わった人だと思わなくもありません。でも、そこで対抗したのが三成の面目躍如としたところですね。長いものに巻かれたくなかったのでしょう。三成の胸には、秀吉のものとは違う国づくりの考えがあった気がします。(04.10.5)

もさ 殿

三成に対しては、上司でいるとこんな頼もしい人はおらず上役にすれば、こんなやっかいな部下はいない、現代の中間管理職の鏡である人の気がします。あと「会社」にとっても、ありがたい人ですよね。。。(04.10.5)

やま 殿

三成を愛する人がこんなに多いのに感激しました!私も三成を愛しています。有力な豊臣恩顧の大名はすべて東に流れていく中、敢然と立ち上がったのが男三成!大志を持つ人間の心は小市民にわかるはずもないですが、それでもやはり三成を愛せずにはおられません。 大阪人としては豊家を守ろうとした三成を他人とは思いたくありません(笑)(04.12.31)

才蔵 殿

秀吉から信頼され、淀君の寵愛を一身に受けて、秀吉亡き後は、秀頼を守り立てて、自らが豊臣家の執政に成ろうと必死だったのでしょう。いつの間にか自分の周りには、敵がどんどん増えているのに気付かず、しかも秀吉亡き後、事もあろうに実力NO1の家康に噛み付くなんて…。しかも、自分の周りにいる連中が頼りになるのかならないかも見分けられず、「この布陣なら勝てる!」と言って関ヶ原に飛び出していくあたり、負けるべくして負けたという感想です。家康は仕掛けた謀略が面白いようにハマっていき、笑いが止まらなかったのでは。

晩年に家康はこんな事を言ったそうです。「我が生涯で感謝すべき者は、信玄と三成だ。信玄は戦の仕方を教えてくれた。三成は、天下を取らせてくれた」と…(05.3.23)

びすまるく 殿

私が「斯くの如くありたい」と思う人物の一人です。豊臣家への忠誠心、大谷吉継との友情等にも感銘しますし、何より当時兵站の重要性を認識していた数少ない武将だと思います。だからこそ、華々しい槍働きよりも裏方に徹したのではないでしょうか。その功績は「豊臣政権内の瀟何」と言っても過言ではないと思います。しかし悲しいかな、兵站(裏方)や、それに従事する人間を軽んじる風潮は現在までも続いているような……(05.3.23)

パンク侍 殿

友情と忠義に生きた男!!俺にとっては好きな武将の一人だ。大谷吉継と三成の友情は日の本一だと思う!!そして、強きものに抗うその忠義の深さも感動する!!確かに戦は上手くなかったかもしれない、加藤清正や福島正成らにも嫌われていたかもしれない、しかし三成の人間的魅力は民には分かっていたと思う!!なんせ仁政の男ですからね。戦国時代だから、戦の上手い・下手で評価しがちだけど、民のために手腕を振るった武将としてみるなら、三成は立派な武将だと思う。天下人家康からしたら邪魔者だったかもしれないけど、民からしたら必要な人だったろう。それはその後の幕府の政治を見たら明らかだし・・・。悔やむとすれば、産まれてくるのが早かった事だなぁ・・ (05.5.1)

林子 殿

平凡社発行の静山松浦清著「甲子夜話」六十六巻の九に、
「石田治部少輔三成は世に”みつなり”と唱へたるが、伊勢の一身田高田派の一向宗の寺は嘗て三成の懇なりしところにて、三成自筆の仮名文数通ありて、皆”かずしげ”と書きたり。三をかずと訓じ、成をしげと訓じたるを、今は知る人もなし{右津候の臣藤堂主計、及儒臣石川貞一郎の話}又津候の家に伝へし石田の仮名文一通にも、かずしげと書きたると云。津候の祖は三成同時にして、文通有りしもさぞなれば、弥々世の誤りを知るべし。」とありますが、この説は誤りでしょうか?(06.8.19)

ジョニー 殿

私は義を重んじる御仁が好きです。もちろん三成もその中に入っています。ある日、大谷吉継との友情話を列車の中で読んでいた私。思わず、人目もはばからずに涙を流しました…。同時に、いじめやそれに伴う自殺が後を絶たない今の世の「友情」とは、一体何なのかを考えさせられました。いじめられた経験を持つ私は、三成のような心遣いがあるだけで、心の有り様がすごく変わるということを知っています。改めて私は、三成と吉継の話を知ることが出来てよかったと思いました。二人の友情は不滅です!07.1.28

マッチ 殿

石田三成は戦上手でしょうな。元々後方支援の確立の仕方を良く分かっていますし、そういう意味では秀吉の才能を受け継いだでしょう。惜しいかな、彼は有能故に嫉妬されていたのだと思う。馬鹿でもない三成は時代の流れが徳川に傾いてるのも分かっていただろう。それでも豊臣の為に戦った三成。真の武人は滅私奉公に徹する事だと思う。07.1.28

智拳印大日如来 殿

はじめまして。川崎市在住の者です。義に生きたこの男、自害せず最後の一瞬まで正義を通した。もし、ワシがこの時代に生きていたら、大谷吉継と同じことをしたと思う。大好きな人物の一人です。ぜんぜん関係ないが、竹中半兵衛も大好きです。郷里の英雄だから。07.5.5

かえる 殿

三成の生まれた、長浜市石田町から3kmほどの所が実家です。石田は山懐に抱かれた小集落で西の琵琶湖に向かって田んぼが広がっているのですが、地名のとおりさぞかし石が多かったろう思わせる地形です。小学生の頃、父親に連れられ一山向こうの山東町観音寺まで自転車で行ったことがあります。

秀吉と三成の出会いが合ったと言われる寺で、父は例の三杯のお茶の話をしてくれました。寺の襖に虎が描かれていたこと、蝉の声、鬼やんまそして寺の隣の小川で沢蟹取りに夢中だったことを覚えています。父は近くの浅井氏の小谷城址にも連れて行ってくれ、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と口ずさんでおりました。そんな父親も二年前の夏に他界してしまいましたが。07.5.5

おみたまプリン

昔も今も多くの人間を束ねるには政治力が必要です。徳川家康という稀代の政治家の前には、三成の義や潔癖なんて、埃みたいに軽かったんでしょうか?理屈から言えば三成はいつも正しい。でもなんか融通きかない。変に細かい。謀略を張り巡らして、あの手この手で人を懐柔するのが出来ない。いつもやることが直線的。

でも、でも、不利でもなんでも正義を通す、命かけて必死で通す。島左近が惚れ込んだのも無理なし。私もほれてしまいました。家康には、彼を恐れて従う人はいても、大谷吉継のようにただ友情のために命を捨ててくれる人はいないでしょう?09.5.11

 

この人物について貴殿の一言、お待ちしております!
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