大谷 吉継
(おおたに よしつぐ)

友情に殉じた名将


生没: 1559〜1600年(42才)
別名:刑部小輔、大谷吉隆
もと豊臣秀吉の小姓。のち越前敦賀城主(5万石)
特徴:晩年はハンセン病のため、崩れた顔を布で覆っていた

武 勇

4

 

 

 

 

 

 

戦 術

8

 

 

知 略

7

 

 

 

カリスマ

7

 

 

 

人 望

9

 

外 交

6

 

 

 

 

内 政

7

 

 

 

能力見解
その指揮能力の高さは評判で、秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」といわしめたほど。もちろん実際はそれほど大勢の兵を率いたことはないが、余程統率力に優れたのだろう。

関ヶ原では2000の兵で奮闘。関ヶ原に散ったのは石田三成との友情に殉じたからで、時代の流れを読みとる眼力は持っていた。病魔に冒された身でありながら、秀吉に寵愛され出世を遂げた。人望も将としての器もあったのだろう。交易の町・敦賀の豪商たちを相手に、よく発展につとめた

 

大谷吉継の生涯

出自と病気

幼い頃より豊臣秀吉に仕える。
賤ヶ岳の戦いでは柴田勝豊を調略するなど、七本槍に次ぐ活躍を見せる。
島津征伐や朝鮮出兵でも功があった。

吉継は当時伝染病として恐れられていた皮膚病(ハンセン病)を患っていた。
そのため、醜く崩れた顔を白い布で覆っていたという。、
晩年には目も不自由になり、歩行も困難なほどに悪化した。
それでも一介の大名として一目置かれていたのだから、実力もあったのだろう。
なお、彼の娘は
真田幸村に嫁いでいるので、叔父甥の関係になる。

三成との友情物語
吉継は、裏切りと策謀渦巻く戦国の世にあって、まれに見る義人として知られるが、
特に有名なのが、
石田三成との友情である。
ある時、茶会があった。集まった諸将は茶碗に入った茶を、
1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。
この時、病気持ちの吉継が口をつけた茶碗は
誰もが嫌い
後の者たちは病がうつるのを恐がって飲むふりをするだけであった。
しかし、
三成だけは違った。三成は普段と変わりなくその茶を飲んだ。
吉継は感激し、以後2人は友と呼び合う仲になったという。

関ヶ原での見事な散り際
秀吉の死後、天下統一の野心をむき出しにした徳川家康は、
会津の上杉討伐に向かう。この時、吉継も従軍したが、
途中佐和山城に立ち寄ったおり、三成から
家康打倒の決心を聞かされる。
驚いた吉継は、家康に勝つ見込みの薄いことや、三成の人望のなさを指摘し、
思いとどまるよう忠告する。
親友なればこその諫言である。
が結局、三成は決起し、
関ヶ原の合戦が勃発する。
吉継は友情を取り、勝ち目のない戦に身を捧げた。

吉継は2000の兵で関ヶ原の西、松尾山の麓に布陣。
小早川秀秋が裏切った場合、自らその盾となる覚悟である。
目も見えず、体の自由もきかぬ吉継は、輿に乗って指揮をとり、
藤堂高虎、京極高知を迎え撃って奮戦した。
結局、正午に小早川秀秋は東軍に寝返り、
1万5千の大軍が大谷隊の側面に討ちかかった。
かねて予期していた大谷隊は小早川隊を押し返す奮戦を見せるが、
続いて付近にいた脇坂、朽木、小川、赤座の部隊も寝返り、一斉に大谷隊に攻撃を仕掛けた。
こうなってはさすがの大谷隊も壊滅し、吉継は乱戦の中で
自刃した。
「三成、地獄で会おうぞ」
介錯した家臣の湯浅五助は、首を守って落ち延び、手厚く葬った。


関連映像
関連史跡
 ドラマ 関ヶ原
関ヶ原古戦場(大谷吉継の墓)

 

草津温泉(吉継の入湯秘話)


戦国ファンが斬る! 吉継 評

ズゴック 殿

ここに掲載されていた「関ヶ原」のビデオをレンタルビデオ屋で見つけ、借りました。その中の三成が西軍についてくれと依頼にいくシーンで、一旦断ったものの考え直して「俺もお前も目が見えぬ」(かなりうる覚え)と三成に参戦を告げたシーンで泣きました。 (03.10.12)

哲坊

ここがきっかけで、ご覧いただけたとは嬉しいです。最期のときの「三成、地獄で会おうぞ」という台詞も最高ですな。(03.10.11)

佐助 殿

私のような小娘も思わず惚れてしまった・・・(笑)
この方の存在を知ったのはコーエー社のゲームの『決戦』(古)なのですが、これをきっかけに図書室へ行けば関係しそうな本をあさり、パソコンをいじれば色んなサイトを回り、調べれば調べるほど、大谷殿(もはや呼び捨てではよべません)の魅力に参ってしまいました。友の為に、自分の命を捨てて戦うなんて・・・もう、私はこのお方命です。
ここのサイトへ来て大谷殿のこと沢山しれてよかったです。ビデオもあるのですか・・・!さっそく借りて観てみたいです〜(03.11.30)

おみさ 殿

人間的魅力のある人物ですよね。当時は戦国時代は寝返りが多かったのにも関わらずこの方は死を覚悟で名誉や出世より真の友情をとった。現代は命を賭けて救おうという友がいる事じたい、そういう考えすら希薄になっていますね。そういうことだけでも大谷吉継殿には学ぶべき事が沢山あると思います。
数年前に放送した大河ドラマ「葵・徳川三代」の関が原が始まる前後の三成と吉継場面は胸が熱くなります。長い長いドラマですがご覧になってみてください。(03.12.28)

バズーカ28 殿

『長いものには巻かれろ』的な人間が多い社会の中で義理人情に生き、散った大谷吉継に感銘をうけます。また三成は人望がなく、どこか不器用な人間だったように見受けられますが吉継の茶を飲むということは『差別をしない・結果を恐れない寛大な人物』であったのか、その逆に『人と違うことをして地位と器の大きさの見せしめ・吉継をの今後の関係を見据えた計算高き人物』なのかわかりませんが、友は友を呼びように三成も不器用人間・義理人情タイプなのでしょう。人間関係って難しいけど私もこういう2人のタイプが好きですね〜。出世より情で生きる!理想ですね。
でも奥方様たちはとんだ災難です。『男のロマンは女の不満』というところでしょうか・・・。 (03.12.28)

哲坊

男のロマンは女の不満…
いいコピーですな。現代にも通じるものがありそうです(笑)。いつの時代も、男と女は分かり合えぬもの…(03.12.28)

D 殿

私はみなもと太郎氏の「風雲児たち」で初めて大谷吉継を知ったのですが、病に侵された顔を布で巻き、見えぬ目と自由にならない足で戦場に出て散っていった吉継が忘れられません。ストーリーはそのまま幕末へ向けて描かれていくのですが、私の頭の中のストーリーは関ケ原の大谷吉継で止まったままになってしまいました。それくらい、この人の生き様はすごい!本気で好きになりそうです。 (04.2.8)

ごごご 殿

司馬遼太郎の「関ヶ原」を今読んでいます。丁度お昼を食べながら下巻の大谷吉継の最後に差し掛かり、一人うっと思わず涙を流してしまいました。昔の人は本当に凄い。の一言です。(04.3.8)

めざせ文武の名将 殿

角川文庫の「名将 大谷刑部」南原幹雄著、お薦めです。史実とは違った描き方ですが、茶会のシーンや、病後も健気に尽くす側室、清正や正則の爽やかな友誼など、泣かせるポイントが至る所に満載です。文武に優れ、道理も見えているのに、滅び行く戦いに友誼を尽くす。「漢(おとこ)」の一言に尽きます。三成も賛否分かれますが、刑部だけでなく、島佐近などの働きを見ると、やはり「漢」だったと思います。それにしても・・・小早川の奴〜・・・、「漢」気を汚す輩ですね。(04.5.30)

siushu 殿

関ヶ原にある大谷吉継のお墓に行ってきました。どんな人物かもよく知らずにお参りしてきたのですが、このような義侠の士であったとは・・・。歴史ゲームで覆面をしている顔グラフィックは演出ではなく、病のためだったのですね。武士とはかくあるべし!勉強になります。(04.5.30)

義則 殿

大谷吉継は、目が不自由な為、第六感でしょうか、人の心を読むことが出来たのだと思います。光成は小早川秀秋を信じて関ヶ原の戦いに挑んだのに、何故盟友の吉継の忠告に耳を貸さなかったのか不思議です。この性格、性分が多数の裏切りを招いたのだと思います。しかし、負け戦と知りながら友に殉じた吉継の生き様に、最高の戦国武将像を感じます。もしこの時代に生きるとしたら、とことん教えを請いたい一番の人物です。(04.5.30)

夏希 殿

はじめまして。初投稿になります。私は歴史の本で彼の存在を知ったわけですが、詳しく調べるようになったのはコーエーさんの「信長の野望」の影響が大きいです。世間ではあまり知名度は高くありませんが、私は戦国武将の中では大谷吉継が一番好きです。戦国武将には稀有な義侠心と関ヶ原の戦いで本体が壊滅する中、ただひとり西軍を支えた関ヶ原での活躍がその生涯において光り輝いています。

負けると分かっていながらなぜ三成とともに戦ったのか?それはわかりませんが「秀吉への恩義」という点において三成と吉継に勝るものはいなかったのではないでしょうか。同僚福島正則、加藤清正のその後と比べて彼らの生き様は武士の名に恥じないものだったと思います。(04.5.30)

刑部大輔 殿

NHKの「その時歴史が動いた」で、仁将関が原に死すと題して、放送して欲しい。今の義理人情の無い時代に戒めの意味で放送するべきだ。(04.7.28)

ぐお 殿

大谷公の生き様は正しく義侠道の根底なのではないかと思います。この不安うずまく現代社会で大谷公のような義に生きる生き方をしてみてもいいんじゃないでしょうか?大谷公は現代に対してなにかの疑問を投げかけているのかもしれません。(04.7.28)

ラジオスターの悲劇 殿

勝ち目の無い戦で静かに戦況を見守る大谷刑部の姿は「宇宙船艦ヤマト」の土方艦長に相通ずるものがあり、男のロマンを感じさせてくれます。大谷刑部というと晩年の関が原の合戦でのシーンに目を奪われがちですが、私は秀吉と刑部のやりとりが好きです。病に冒され世間から後ろ指をさされていた刑部に唯一温かく接していた秀吉を思うと目頭が熱くなります。時代劇でも秀吉に寵愛されていた時期の刑部のエピソードなどをとりあげてくれるといいですね。(04.10.5)

j 殿

負けることを承知の上で味方に付く” 考えようによっては此れほど愚かな人はいないでしょう。ですが、多くの人の心を惹きつけて止まない刑部少輔の生きざまは決して愚かではない。徳川の鳥居元忠然り。(04.10.5)

不忠者抹殺委員会会長 殿

私は基本的に「義に殉じた武将」が好きです。大谷吉継 島左近 武田信繁 山中鹿ノ介 等々、共通するのは、自分の命よりも大切なものに己を捧げたという点であり、今の現代人には絶対に真似できない事であると思う。だからこそ、その生き様に私達が憧れるのであり心に響くのである。私達が今生きているこの地に彼らの様な人間がいた事を忘れるべきではない。それもわずか約400年前なのだから・・・。(04.10.5)

才蔵 殿

石田三成との義に殉じた吉継は素晴らしい武将であると思います。しかし私としてはこれほどの武将を関ヶ原で散らせてしまうのは勿体無かったと思います。関ヶ原には参戦せず、病も煩って無い元気な吉継が、婿の真田幸村と共に大阪城に立てこもり采配を振るっていたら…と思うのです。きっと吉継なら「だまれ治長!うぬのような小物の出る幕ではないわっ!さがれっ!」と一喝し、大坂城内の空気を一瞬でまとめあげてしまう力を持っていたでしょう。そうなれば幸村も真田丸で思う様、力を発揮出来ていたでしょう。大坂の陣は長引いたと思いますよ。ひょっとしたら、家康から妥協を引き出し、豊臣家を残す事も出来たかも知れませんね。なわけねえか。単なる夢物語ですね。(04.12.31)

吉勝 殿

茶会の話なんですが、膿が茶に垂れたとどこかで読みました。まあ、どちらにせよ、吉継は感激ものだったでしょうね。大河では小早川に裏切るなよ…と見えぬ目で迫る吉継を演じた細川さんが印象的でしたね。(04.12.31)

光一 殿

義に殉じた武将@切りが常の戦国の世では一風の清流とも言える人物ですね。友の無謀ともいえる挙兵に負け戦と知りながら参戦する・・その胸に去来するものとはどの様なものだったのでしょうか?働き盛りの時にハンセン病に侵されて日々自由の利かなくなる体、人並みに武将としての野心もあったはずです。それを自身で線引きした時、彼は武士としての散り場を求めていたのではないでしょうか?死ぬ事の覚悟を心得た彼が放つ言動には一つの悟りを開いた人間の凄みがあります。(04.12.31)

大和守安定 殿

男は負けるとわかっていても戦わなければならない時がある。智謀の人、吉継なら家康に付いて家名を将来に残す事は簡単だったはずです。だけど三成に命を呉れてやった。小早川の寝返りを予見し「死ねや、死ねや」白い頭巾で輿に乗り家臣に下知した吉継が関が原に咲かせた見事な死に花。戦国武将らしい男の生き方です。(05.3.23)

四王田宗龍 殿

司馬氏の「関が原」を読み大谷刑部と石田三成の友情の深さを知り関連サイトを読み漁りました。皮膚病を患い最後は目も見えない状態で輿に乗って戦場を駆け回るというのは実際できるものなのでしょうか?ましてや一糸乱れぬ軍団を統率しているところがすばらしい。誰だって自分の大将が目を見張る偉丈夫であったにこしたことがないはず。身体的ハンデを背負っても余りある人望とカリスマ性を兼ね備えていたのではないでしょうか?それゆえ負け戦とわかっていても秀秋に二心有りとわかっていても関が原の最前線を担ってのでは…。好きです大谷刑部!秀秋の様の輩が多い昨今ですがこんな骨のある人おらんかなあ…。(05.3.23)

ろんじ 殿

関ヶ原町民です。

>介錯した家臣の湯浅五助は、首を守って落ち延び、手厚く葬った。

とありますが、大谷吉継のお墓の隣に湯浅五助のお墓があったと思います。確か、湯浅五助が吉継の首を埋めたときに敵の武将に見つかって…といったドラマティックなエピソードがあったように思うのですが、すみません詳細は忘れてしまいましたー。こういうのは諸説あるのでどれが正しいのか難しいですよね。(05.3.23)

u-ga 殿

湯浅五助が吉継の首を埋めたときに敵の武将に見つかって…といったドラマティックなエピソード、確かにありますね。事実かどうかはともかく笑湯浅五助が首を守り、落ち延び・・・首を弔った後すぐに、徳川方の兵士(おそらく足軽)に見つかりました。ですがこの足軽、五助とは旧知の仲。

「五助、お前が埋葬したのは大谷刑部の首か?」と聞かれ、「そうだ。しかし病に冒された殿の首を衆目に晒したくはない。代わりとするほどの物でもないが、私の首をくれてやろう。だから殿の首を見逃してくれ・・・」と答えたそうです(台詞は勝手に作りました)。そして、その頼みを聞き入れた徳川の足軽は五助の介錯を行い、その首を家康に見せたそうです。が・・・

家康「お前は、大谷の首の在り処を知ってるのではないか?」と聞かれたのです。(家康の洞察力って凄い・・・)そして、その問いに対する答えが

「知っています。ですが友(五助)と約束をしたのです。五助の首を取る代わりに大谷刑部の首は決して掘り起こさぬと。たとえ今ここで殺されようとも、決して在り処は言いませぬ」

この発言に感心した家康は、普段よりも多い褒賞をこの足軽に与えたそうです。・・事実かどうかは知りませんし、ただの作り話なのかもしれません。でも作り話であっても・・・やっぱり感動しちゃいますよね。これが「武士の情け」なのかもしれません。最後に大谷刑部の辞世の句を。

「契りあらば 六つのちまたに待てしばし 遅れ先立つ たがひありとも」

彼が尤も信頼した平塚為広との、最後の別れに贈ったものとされます。(平塚も関が原に戦死しています)情に死した彼らしい辞世の句ですね。(05.7.11)

なまず 殿

今日、大谷吉継のお墓に行って来ました。林の中の道を抜けると墓の前に3人の中年の女性がいました。ただならぬ雰囲気に近寄れず少し遠くから見ていると、真ん中の女性がひざまずいて号泣しながら、ありがとうございますと何度も繰り返しておりました。その後熱心に念仏のような物を唱え、さらに祝詞の様な言葉を口にしておりました。周りの二人も泣いていたようです。大谷吉継には何か宗教的な信心を寄せられる理由でもあるのでしょうか?(05.7.11)

素浪人 殿

私もTBS時代劇「関ヶ原」を見て、高橋幸治さん演じる大谷さんを見て感動しました。三成との友情の場面を越える感動シーンに今だめぐり合ったことがありません。今年公開された「キングダムオブヘブン」は十字軍の話ですがハンセン病に冒された人徳の高い王が出てきます。なんか大谷さんの姿とダブりました。
>>なまず様、いいお話ありがとうございます。(05.12.19)

朗 殿

己の未来が見えていながら尽力し多くの部下を巻き添えに果てるとは愚かしい。己は良くても部下は家族はそれでよかったのか?

ただ、貴方の最後は潔い。九泉の下でさぞ部下に詫びた事でしょう。現代人は心が少し病んでいるかもしれないが、貴方の生き様は、私や大勢の人々の心をただしい方向に導いてくれるのかもしれませんね、吉継殿。(06.3.9)

信成頑張れ 殿

大谷吉継公と湯浅五助殿の最後の逸話、素晴らしいですね。私はこの逸話を仕事で使わせていただいてます。私は産婦人科医でしばしば、口唇口蓋裂(唇から口の中が裂けている先天性の病気、今は手術できれいに治ります。)のお子さんの分娩に立ち会います。(五助殿も口唇口蓋裂だったそうです)

退院される前にお母さんにこの逸話を聞かせて、「五助のような立派な人間に育ててください。」と話すことにしています。多くのお母さんがこの話に少し勇気づけられているように自分では感じています。また、指が6本ある多指症のお子さんのお母さんには「豊臣秀吉も指が6本あったんですよね。」とお話しています。戦国時代の英雄達も自分がこんな形で後世で役立っているとは思っても見ないでしょうね。(06.3.9)

伊予西条 殿

同級生が大谷吉継の小説を出版したので、そのお祝いの会の前に小説を読み、調べ、あまり知らなかったこの人物像に驚きました。今と違ってやり直しがきかず誰もが死と隣り合わせだからこそ才のある人を探し登用し・・・それにしてもハンセン病、この間まで正しい知識が持たれず・・戦国時代は想像に難くなく。(06.8.19)

GARA−CO 殿

私のような歴史に疎い者にとってはなかなか知ることのない人物ではあります。しかし、この度縁あって、一冊の本を手に取り、小説仕立てではありますが、この人の魅力にはまりました。小説なのでフィクションも織り交ぜでしょうが、なかなか読ませる本であるなぁというのが感想です。この本のおかげで、吉継自身の本当の姿を知りたいとネット検索しているとこちらのページにたどり着きました。みなさんの投稿メールなど読ませて頂いていると、吉継を尊敬されている気持ちが伝わってきました。どのような感想を持たれるかは人それぞれとは思いますが、筆者の大谷吉継に寄せる思いもひしひしと伝わってくる本をぜひ紹介したいと思います。学研M文庫「小説 大谷吉継」菅靖匡著。(06.8.19)

闘将

日本史が大好きで、小学生の頃から「関が原の合戦きっての名将」大谷吉継公のお名前は存じておりました。以後、何冊もの本を読破してきたのですが、ある本の最後のシーンで家臣を助ける為、お金を渡し、逃げ延びるように説得しても受け取らず、家臣一人一人が名前を言って突撃して戦死する様には涙なしでは読めませんでした。また、大軍を相手に奮戦する姿は、現代の人心掌握術にも通じる武将ですね。私の心の中に響く武将三傑(他に、真田幸村、立花宗茂)の一人です。07.12.22

ロジコ

吉継さま(勝手に様付け)に初めて魅了されたのは小学生の時です。児童向けの雑誌の別冊付録に戦国武将の事が書かれておりました。そこの『友のために死を選んだ』と見出しにされた吉継さまに私の当時:小学生の脳がものすっごく惹きつけられました。自分が勝つためなら家族さえも裏切る戦国の世に,三成のために死を覚悟し戦に出た潔さというか漢(おとこ)らしさがズキュンと胸にきます。三成との茶会のエピソードも感動します。07.12.22

為広@

私の年齢上、この大谷吉継のことを語り合える友人はおりませんが、彼のことは戦国を知ってからすぐに知りました。戦国という時代に義と愛にいきた武将、彼ほどの武将は他に類を見ないと思います。石田三成もなかなかの武将だと思いますが彼は三成以上に深いものを持った武将だったと思います。癩病、当時は前世に悪を働いた為になるといわれていた病気ですから差別に耐えて友情に殉じたことに心を動かされます。07.12.22

SAKURA

大谷刑部、戦国時代最も好きな武将の一人です。子供の頃ラジオドラマで聞いて「何と潔い人だろう」と感激しました。関が原で負けた為知る人ぞ知るという存在ですが、地下の刑部は「それでよい」と締淡としているのではないでしょうか。刑部の娘が真田幸村に嫁いでいますが、この上ない縁組だったと思います大谷刑部フアンの方がこんなにたくさんいて嬉しい限りです。07.12.22

 

この人物について貴殿の一言、お待ちしております!
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