島 左近
(しま さこん)

三成への恩に報いた鬼左近


生没:?〜1600年
本名:勝猛、清興
もと大和郡山城主・筒井順慶家臣
のち石田三成に15000石の高禄で召し抱えられる
特徴:頑固 はげ頭 いかつい顔 筋肉質で骨太

武 勇

9

 

戦 術

7

 

 

 

知 略

7

 

 

 

カリスマ

6

 

 

 

 

人 望

7

 

 

 

外 交

4

 

 

 

 

 

 

内 政

4

 

 

 

 

 

 

能力見解
最後まで恩に報いて三成のもとで堂々と戦いぬき、敵を恐れさせた。軍略に劣る石田三成の代わりに、石田のほぼ全軍の指揮権を握っていたようだ。三成に道を誤らぬよう、度々苦言を呈して諌めており、参謀としても活躍した。「三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近に佐和山の城」といわれただけあって、その名と人望は天下に高かった。忠義心も篤い。

 

島左近の生涯

関ヶ原での散り様は後世の語り草に

はじめ大和の筒井順慶に仕えて侍大将となる。
その実力は、同僚の松倉右近とともに、「左近・右近」と並び称されたほど。
のちに、羽柴秀長、秀保に仕えたという話もあるが、やがて浪人となり、
近江に隠遁していた。
天下に名を馳せた左近のもとには、様々な仕官の話があったようだが、
なかなか腰を上げようとはしなかった。
やがて、その頃、近江に赴任してきた
石田三成が左近を訪ねた。
初めは断った左近であったが、
三成は、左近に、家臣としてではなく父、対等な立場でいて欲しいと
頭を下げて仕官を頼んだ。知略、武勇に劣る三成にとって、
戦闘のプロ、左近は喉から手が出るほど欲しい男であった。
そして、
秀吉から拝領した知行4万石の書状を破り、半分を左近に手渡した
左近は感服し、それ以後三成と運命を共にすることを誓う。

実際には1万5千石で召し抱えられたが、三成にとって年棒の4割近くを
「専務・島左近」に与えたのである。当時、主家の半分近くの高禄を
与えられていた武将は、他に例がない。左近仕官の話は広まり、当時の人々は、
「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」とうたったという。

1598年、太閤秀吉が死去、徳川家康の横暴が始まり、関ヶ原の戦いへと展開する。
左近は三成に家康の暗殺計画を進めたが、用いられなかった。
また、関ヶ原合戦の前夜、島津義弘や小西幸長など歴戦の武将とともに
家康軍への夜襲を進言したが、それも退けられてしまった。
三成は正直過ぎる性格で、謀略を嫌い、正々堂々と家康と
決着をつけたがったのである。
それゆえ、左近のような優秀な部下を使いこなせなかった。
左近は、しかし「正義の人」三成とともに死ぬ覚悟を決めた。
その夜、自分の陣所に帰ると部下たちへ
「明日はここにいる全員の命を貰う」と告げた。

左近の予想は適中した。
はじめは有利に戦った西軍であったが、小早川秀秋らの裏切りにより大敗。
石田隊の前線にいた左近は、敗色濃厚となるや討ち死にを決意。
残り少ない兵で正面の田中吉政、黒田長政の隊に
突撃を敢行した。
その戦いぶりはすさまじく、またたくまに田中軍を300メートルも
後退させる奮闘を見せた末、討ち死にした。
合戦後、
「死兵を見た」(田中吉政)
「彼の戦場での姿を思い出すと身も凍る思いがする」(黒田家武将)
と東軍諸将はその奮闘ぶりをたたえた。
しかし、討ち死にしたはずの
左近の首はついに見つからなかったという。
また、左近の討ち死には、関ヶ原開始直後であったともいわれる。

後、島左近隊と直接闘った黒田家の家臣たちが昔話として、
若い武士たちに関ヶ原の合戦を語った。
話題が左近に及ぶと、その日の左近の軍装を誰も思い出せない。
そこで、家中にいる旧石田氏の家来を呼び寄せ、左近の軍装を尋ねてみると、
「兜の立物は三尺余りの天衝を付け、具足は桶革胴の漆塗りで、
 浅黄木綿の陣羽織を着ていた」
と言った。
この派手な格好であったにも関わらず、誰も覚えていなかったのである。
「恥ずかしい事じゃが、あの時の島左近の大きな声は耳に残っているが、
 軍装は全く覚えていない。見るどころか、顔を上げるのも怖かった。
 しかし笑わんでくれ、それほどまでに左近は恐ろしい男じゃった」

と恥じ入ったという。
たしかに、左近の名は有名であるにも関わらず、
肖像画などは一切残っていない。

黒田家は後藤又兵衛、黒田節で有名な母里太兵衛のような豪傑を抱えていたが、
左近の噂はそれ以上であった。

左近は一時期甲斐の武田家に仕え、三方ヶ原の合戦にも参加したという説も
残っている。そのためか、
「家康がどれほどの人物か?自分は信玄、信長、秀吉と
 天下第一等の人物をみたが、家康は彼らより数段落ちる」
と語ったともいう。



関連映像
関連史跡
 ドラマ 関ヶ原
関ヶ原古戦場(大谷吉継の墓)


関連書籍
「関ヶ原」

司馬遼太郎著(新潮文庫、上中下巻)

「闘将島左近」

佐竹申伍著(光風社出版)

「影武者徳川家康」

隆慶一郎著

「SAKON」(漫画)

隆慶一郎原作、原哲夫画(集英社)


戦国ファンが斬る! 左近 評

哲坊

関ヶ原の合戦では、早々に討ち死にしたという説と、最後まで粘り強く戦ったという説とがありますが、やはりどうしても後者の説を支持したくなってしまいますな。(03.8.26)

六郎 殿

漫画の「影武者徳川家康」で左近を知りました。 突撃の時の「死ねー!死ねー!」の雄たけび。 めちゃかっこいい。 このページを見てほぼイメージどうりでしたが、はげ頭というのはちょっと・・・。 かなりイメージダウン・・・。(03.11.1)

哲坊

あの漫画は、ほとんどがごっつい美男子に描かれているので、あまり真に受けないほうが良ろしいかと…(笑)。人に大事なのは容姿ではなく、事跡であり中身。たとえはげ頭だろうと、せっかく興味を持たれたのですから愛してやってほしいと思います。(03.11.1)

みなみ 殿

地元の人間です、祖父の言い伝えをご紹介したいと思います。関ヶ原に咲く曼珠沙華(彼岸花)の赤色は、島の左近が関ヶ原で戦い、血を流した跡だ、と。こちらでは10月中頃曼珠沙華は赤々となります、その時期に観光される方はそんな花をも感じて頂けたら幸い。旧暦で見ても完全なおとぎ話とも思えません、ロマンスに近い言い伝えです。でも故郷バカかもしれませんがどこよりも関ヶ原の原野に点々と咲く曼珠沙華の色の方が濃い赤に見えるのです。なんにせよ私の中では語り継ぎたい話です。粘り強く戦った説、私もそちらを支持します。(03.11.1)

あつし 殿

歴史についてはあまり詳しくはないですが、母方の先祖が島左近らしいです。歴史上は関ヶ原で死んだとなっているそうですが、実は生き延びて石川県の現在でいう羽咋市で百姓として生きたそうです。

じいちゃんが若いころには、家に島左近の刀もあったと聞きます。現在その刀はありませんが、じいちゃんの実家の蔵にはたぶんまだ島左近のなにかがあるんじゃないかと母が言ってました。(04.2.8)

哲坊

武辺者(だったと思う)の左近が、百姓として生きられましたかなあ(笑)? でも、本当だとしたら興味深い話です。遺品などがあれば、とても重要な史料になりますぞ。一度是非、その「なにか」を見てみたいものです。またメールくだされ。(04.2.8)

桑原初芽 殿

テレビドラマでの三船敏郎は島左近が最高のあたり役と聞き、今一所懸命に関ケ原を探しています。早く観たい!!拙文ですいません。(04.3.8)

友和鬼 殿

私が島左近を知ったのは隆慶一郎と池波正太郎の小説でありました。それ以来、島左近の大ファンです。あまりの資料の少なさに、「果たして実在したのか」と懸念されるところもありますが、石田三成との逸話、豪腕を奮った活躍の魅力に勝るものはありません。生存説も、当時の人も魅力を感じていたからでしょう。関が原で華々しく散るのも、百姓として余生を生きるのも、島左近ファンとしてはどちらも推したい説であります。(04.7.28)

志摩善行 殿

私は宮城県仙台市在住の者(58歳)です。出身はここから車で1時間半程の石巻市湊字伊原津です。小さい頃から父や郷土の歴史家から、島左近は関が原から落ち延び、この地に住み百姓をし、私達はその島左近の子孫であると言われてきました。苗字の字は「島」ではなく「志摩」ですが、これは追っ手の目をごまかすために変えたと聞いております。

隣の家が本家筋であり、そこの当主は17代か19代と聞いていました。その家は今は建て替えられましたが、40年ほど前に、県内か市内かさだかではありませんが、1番古い民家で300年程前に建てられたものであると、新聞に載ったこともあります。小さい頃はよくその家で遊びました。納戸には刀が何本かあり、大きな旗がありました。旗には大きな三日月の模様があったように記憶しています。県内で志摩の姓を名乗る人の出自をたどると、この家にたどり着きます。

ここから歩いて15分位の所には、隠れ里山があり、ここには昔、たぶん建武の中興?の時の天皇の1皇子が政変から逃れ、ここに隠れ住んでいたと言われています。そして近くには1皇子を祭った神社があります。それ位この辺は逃げ隠れするにはちょうど良い所だったのでしょう。昔は草深い辺鄙な所でしたが、今は町になっています。もし、私達に関して何か知っていることがありましたら、お知らせ頂ければ幸いです。(05.5.1)

哲坊

貴重なお話、ありがとうございました。史実的な定説よりも、ロマンを感じますな。(05.5.1)

夏希 殿

うーん、なんだかすごいですね…戦国時代には多いのですが島左近は出自が非常に不明な武将の1人で大和、近江、対馬などと諸説があるのですが、(対馬説などはそのために「島」という苗字になったなどというものすごい強引な説だったり)大和出身で鎌倉時代末期に大和国平群谷を本拠地として武士化したというのが今の定説のようです。

本能寺の変以後、負けた側の首謀者や側近などは捕縛されると皆処刑されたため、(明智家臣 斎藤利三など)島左近が逃げおおせたというのは大いにありうるのですが、志摩善行殿のお話を聞くと明智光秀=天海説なども現実味を帯びてそうな気がしてきましたねぇ…(05.7.11)

武士魂 殿

恥ずかしながら最近漫画で読みました。カッコイイ!!大河ドラマとかにならんですかね。・・・彼に見合う俳優がいないか・・・。(05.7.11)

出雲の住人狼八郎 殿

出雲にも昔尼子家の再興をめざして戦った有名な武将・山中鹿之助がありますが、その人にも負けぬ武勇と知力、そしてなにより恩に報いるという日本人の真髄を島左近殿に見申した。今まであまり知らなかったことを恥じており申す。(05.7.10)

塩見弥一 殿

島左近は関ヶ原合戦において戦死とか行方不明とか諸説あるが通説は戦死である。しかし、京都・千本中立売の商店街から入ったところにある立本寺に、島左近の墓があり、墓碑には「妙法院島左近源友之大神・・」、2m四方はあるかなり広い墓域で下の墓石に「土葬」と刻印、墓碑の裏は「寛永9□年6月26日没」とある。これによると関ヶ原合戦後32年も生きていたことになる。なお、墓地の入り口には、「関ヶ原大軍師 島左近の墓」の石碑がある。(06.3.9)

島蔵 殿

私は島姓を名乗る岩手の者です。島左近が合戦前夜、この戦は敗北すると予想し、合戦後に北陸街道を北上し、途中、上杉景勝公に庇護を頼るよう石田三成の遺児を送り届け、親交があった南部利直公を頼り岩手の花巻にて庇護され髷を剃り仏門に入ったと先祖からの言い伝えがあります。そのお寺に島左近より託された遺物の護り刀等がご開帳時拝めると聞いております。(06.3.9)

美弥 殿

私も漫画で彼の存在を知りました。彼のような人が存在し、下克上の戦国時代で「義」に生きていたというのが感動です。彼に最後まで忠義を尽くされた石田三成さんがうらやましいです。関が原では敵兵に悪夢を見せたといわれるほどの戦いを見せたそうですが・・・かっこよすぎる。たとえ、は、は、・・髪が薄くても!かっこいいです。いつまでも私の理想の男性です(照)。子孫という方々がおられるんですね!驚きました。すごくロマンを感じます。(06.3.9)

ジョニー 殿

石田三成の家臣は恐ろしい連中だらけですが、島左近はその中でも格別!「かかれーっ!」の一言、振るう刃に敵はたじろぐ…。これだけでも当代随一の猛将だったことが伝わります。私も開戦早々に討ち死にしたのではなく、最後まで奮闘したと信じたい!司馬さんの小説「関ヶ原」での左近が、私のイメージに一番近いですね。07.5.5

大塚純子(里のたぬき)

親戚が島左近の末裔だと聞いています。広島の酒屋です。http://www.hakubotan.co.jp/index05.htm こちらを拝見して、東北や北陸にもご親戚がおられるそうなので、驚きました。09.5.11

野乃小市

島左近は本当に謎多き人物ですよね。私が彼を知ったのは小学6年生の頃、関ヶ原の戦いについての授業ででした。各武将の名前が黒板にはられていたので、好きな私は取り敢えず西軍から名前を書いていくことに。そのなかに島左近はいました。石田三成が好きで調べていく時に、彼の逸話を知り、興味を持った次第です。

それにしても島左近は格好よい。物凄く。彼の才能は惜しいけれども、私としては奮戦して戦死する説を信じています。百姓姿の島左近自体想像出来ません・・・; ところであの三成に仕える逸話は石田三成が渡辺了を召し抱える話と入り交じってできた、という話は結局どうなのでしょう? 09.5.11

麦茶

島左近は三成に家康暗殺の案があり実行をたのんでいたそうです。ですが三成はことごとく却下。これでもついていくところが左近のすごいところでもあると思っています。

ですが、この左近を最大に使いこなせなかったのは三成の器量不足なのでしょうか?<三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と、佐和山のしろ> 本当に三成には、左近はもったいなかったのかもしれませんね。09.5.11

 

この人物について貴殿の一言、お待ちしております!
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