三成への恩に報いた鬼左近
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●関ヶ原での散り様は後世の語り草に はじめ大和の筒井順慶に仕えて侍大将となる。 実際には1万5千石で召し抱えられたが、三成にとって年棒の4割近くを 1598年、太閤秀吉が死去、徳川家康の横暴が始まり、関ヶ原の戦いへと展開する。 左近の予想は適中した。 後、島左近隊と直接闘った黒田家の家臣たちが昔話として、 黒田家は後藤又兵衛、黒田節で有名な母里太兵衛のような豪傑を抱えていたが、 左近は一時期甲斐の武田家に仕え、三方ヶ原の合戦にも参加したという説も |
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司馬遼太郎著(新潮文庫、上中下巻) |
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佐竹申伍著(光風社出版) |
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隆慶一郎著 |
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隆慶一郎原作、原哲夫画(集英社) |
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戦国ファンが斬る! 左近 評 |
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哲坊 |
関ヶ原の合戦では、早々に討ち死にしたという説と、最後まで粘り強く戦ったという説とがありますが、やはりどうしても後者の説を支持したくなってしまいますな。(03.8.26) |
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六郎 殿 |
漫画の「影武者徳川家康」で左近を知りました。 突撃の時の「死ねー!死ねー!」の雄たけび。 めちゃかっこいい。 このページを見てほぼイメージどうりでしたが、はげ頭というのはちょっと・・・。 かなりイメージダウン・・・。(03.11.1) |
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哲坊 |
あの漫画は、ほとんどがごっつい美男子に描かれているので、あまり真に受けないほうが良ろしいかと…(笑)。人に大事なのは容姿ではなく、事跡であり中身。たとえはげ頭だろうと、せっかく興味を持たれたのですから愛してやってほしいと思います。(03.11.1) |
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みなみ 殿 |
地元の人間です、祖父の言い伝えをご紹介したいと思います。関ヶ原に咲く曼珠沙華(彼岸花)の赤色は、島の左近が関ヶ原で戦い、血を流した跡だ、と。こちらでは10月中頃曼珠沙華は赤々となります、その時期に観光される方はそんな花をも感じて頂けたら幸い。旧暦で見ても完全なおとぎ話とも思えません、ロマンスに近い言い伝えです。でも故郷バカかもしれませんがどこよりも関ヶ原の原野に点々と咲く曼珠沙華の色の方が濃い赤に見えるのです。なんにせよ私の中では語り継ぎたい話です。粘り強く戦った説、私もそちらを支持します。(03.11.1) |
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あつし 殿 |
歴史についてはあまり詳しくはないですが、母方の先祖が島左近らしいです。歴史上は関ヶ原で死んだとなっているそうですが、実は生き延びて石川県の現在でいう羽咋市で百姓として生きたそうです。 じいちゃんが若いころには、家に島左近の刀もあったと聞きます。現在その刀はありませんが、じいちゃんの実家の蔵にはたぶんまだ島左近のなにかがあるんじゃないかと母が言ってました。(04.2.8) |
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哲坊 |
武辺者(だったと思う)の左近が、百姓として生きられましたかなあ(笑)? でも、本当だとしたら興味深い話です。遺品などがあれば、とても重要な史料になりますぞ。一度是非、その「なにか」を見てみたいものです。またメールくだされ。(04.2.8) |
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桑原初芽 殿 |
テレビドラマでの三船敏郎は島左近が最高のあたり役と聞き、今一所懸命に関ケ原を探しています。早く観たい!!拙文ですいません。(04.3.8) |
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友和鬼 殿 |
私が島左近を知ったのは隆慶一郎と池波正太郎の小説でありました。それ以来、島左近の大ファンです。あまりの資料の少なさに、「果たして実在したのか」と懸念されるところもありますが、石田三成との逸話、豪腕を奮った活躍の魅力に勝るものはありません。生存説も、当時の人も魅力を感じていたからでしょう。関が原で華々しく散るのも、百姓として余生を生きるのも、島左近ファンとしてはどちらも推したい説であります。(04.7.28) |
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志摩善行 殿 |
私は宮城県仙台市在住の者(58歳)です。出身はここから車で1時間半程の石巻市湊字伊原津です。小さい頃から父や郷土の歴史家から、島左近は関が原から落ち延び、この地に住み百姓をし、私達はその島左近の子孫であると言われてきました。苗字の字は「島」ではなく「志摩」ですが、これは追っ手の目をごまかすために変えたと聞いております。 隣の家が本家筋であり、そこの当主は17代か19代と聞いていました。その家は今は建て替えられましたが、40年ほど前に、県内か市内かさだかではありませんが、1番古い民家で300年程前に建てられたものであると、新聞に載ったこともあります。小さい頃はよくその家で遊びました。納戸には刀が何本かあり、大きな旗がありました。旗には大きな三日月の模様があったように記憶しています。県内で志摩の姓を名乗る人の出自をたどると、この家にたどり着きます。 ここから歩いて15分位の所には、隠れ里山があり、ここには昔、たぶん建武の中興?の時の天皇の1皇子が政変から逃れ、ここに隠れ住んでいたと言われています。そして近くには1皇子を祭った神社があります。それ位この辺は逃げ隠れするにはちょうど良い所だったのでしょう。昔は草深い辺鄙な所でしたが、今は町になっています。もし、私達に関して何か知っていることがありましたら、お知らせ頂ければ幸いです。(05.5.1) |
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哲坊 |
貴重なお話、ありがとうございました。史実的な定説よりも、ロマンを感じますな。(05.5.1) |
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夏希 殿 |
うーん、なんだかすごいですね…戦国時代には多いのですが島左近は出自が非常に不明な武将の1人で大和、近江、対馬などと諸説があるのですが、(対馬説などはそのために「島」という苗字になったなどというものすごい強引な説だったり)大和出身で鎌倉時代末期に大和国平群谷を本拠地として武士化したというのが今の定説のようです。 本能寺の変以後、負けた側の首謀者や側近などは捕縛されると皆処刑されたため、(明智家臣 斎藤利三など)島左近が逃げおおせたというのは大いにありうるのですが、志摩善行殿のお話を聞くと明智光秀=天海説なども現実味を帯びてそうな気がしてきましたねぇ…(05.7.11) |
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武士魂 殿 |
恥ずかしながら最近漫画で読みました。カッコイイ!!大河ドラマとかにならんですかね。・・・彼に見合う俳優がいないか・・・。(05.7.11) |
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出雲の住人狼八郎 殿 |
出雲にも昔尼子家の再興をめざして戦った有名な武将・山中鹿之助がありますが、その人にも負けぬ武勇と知力、そしてなにより恩に報いるという日本人の真髄を島左近殿に見申した。今まであまり知らなかったことを恥じており申す。(05.7.10) |
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塩見弥一 殿 |
島左近は関ヶ原合戦において戦死とか行方不明とか諸説あるが通説は戦死である。しかし、京都・千本中立売の商店街から入ったところにある立本寺に、島左近の墓があり、墓碑には「妙法院島左近源友之大神・・」、2m四方はあるかなり広い墓域で下の墓石に「土葬」と刻印、墓碑の裏は「寛永9□年6月26日没」とある。これによると関ヶ原合戦後32年も生きていたことになる。なお、墓地の入り口には、「関ヶ原大軍師 島左近の墓」の石碑がある。(06.3.9) |
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島蔵 殿 |
私は島姓を名乗る岩手の者です。島左近が合戦前夜、この戦は敗北すると予想し、合戦後に北陸街道を北上し、途中、上杉景勝公に庇護を頼るよう石田三成の遺児を送り届け、親交があった南部利直公を頼り岩手の花巻にて庇護され髷を剃り仏門に入ったと先祖からの言い伝えがあります。そのお寺に島左近より託された遺物の護り刀等がご開帳時拝めると聞いております。(06.3.9) |
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美弥 殿 |
私も漫画で彼の存在を知りました。彼のような人が存在し、下克上の戦国時代で「義」に生きていたというのが感動です。彼に最後まで忠義を尽くされた石田三成さんがうらやましいです。関が原では敵兵に悪夢を見せたといわれるほどの戦いを見せたそうですが・・・かっこよすぎる。たとえ、は、は、・・髪が薄くても!かっこいいです。いつまでも私の理想の男性です(照)。子孫という方々がおられるんですね!驚きました。すごくロマンを感じます。(06.3.9) |
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ジョニー 殿 |
石田三成の家臣は恐ろしい連中だらけですが、島左近はその中でも格別!「かかれーっ!」の一言、振るう刃に敵はたじろぐ…。これだけでも当代随一の猛将だったことが伝わります。私も開戦早々に討ち死にしたのではなく、最後まで奮闘したと信じたい!司馬さんの小説「関ヶ原」での左近が、私のイメージに一番近いですね。07.5.5 |
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大塚純子(里のたぬき) |
親戚が島左近の末裔だと聞いています。広島の酒屋です。http://www.hakubotan.co.jp/index05.htm こちらを拝見して、東北や北陸にもご親戚がおられるそうなので、驚きました。09.5.11 |
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野乃小市 |
島左近は本当に謎多き人物ですよね。私が彼を知ったのは小学6年生の頃、関ヶ原の戦いについての授業ででした。各武将の名前が黒板にはられていたので、好きな私は取り敢えず西軍から名前を書いていくことに。そのなかに島左近はいました。石田三成が好きで調べていく時に、彼の逸話を知り、興味を持った次第です。 それにしても島左近は格好よい。物凄く。彼の才能は惜しいけれども、私としては奮戦して戦死する説を信じています。百姓姿の島左近自体想像出来ません・・・; ところであの三成に仕える逸話は石田三成が渡辺了を召し抱える話と入り交じってできた、という話は結局どうなのでしょう? 09.5.11 |
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麦茶 |
島左近は三成に家康暗殺の案があり実行をたのんでいたそうです。ですが三成はことごとく却下。これでもついていくところが左近のすごいところでもあると思っています。 ですが、この左近を最大に使いこなせなかったのは三成の器量不足なのでしょうか?<三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と、佐和山のしろ> 本当に三成には、左近はもったいなかったのかもしれませんね。09.5.11 |
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