真田 幸村
(さなだ ゆきむら)

武士の気概を見せた日本一の兵(つわもの)


身長/不明だが小柄
生没:1567〜1615年(49才)
別名:左衛門佐(さえもんのすけ)
本名:信繁 幼名:源次郎、弁丸
信濃上田城城主、真田昌幸の次男

特徴:柔和 物静かで無口
好きな物:焼酎

武 勇

9

 

戦 術

9

 

知 略

8

 

 

カリスマ

7

 

 

 

人 望

7

 

 

 

外 交

4

 

 

 

 

 

 

内 政

5

 

 

 

 

 

能力見解
大阪の陣では孤軍奮闘、10倍以上の兵力で攻めかかる関東勢を一度は撃退。夏の陣でも野戦において殿軍をつとめ、徳川の追撃隊を寄せつけぬ見事な用兵ぶりを見せた。15万の徳川本陣を急襲し、旗本勢を蹴散らす奮戦ぶりは伝説となっている。

利害を超越した豊臣方への奉公、武人としての生きざまに、敵味方問わず高く評価されていた。しかし、大坂城内での立場は決して恵まれていたとはいえず、発言力も低かった。

 


真田幸村の生涯
1567年
(永禄10年)
幸村誕生

父武藤喜兵衛昌幸(真田幸隆の三男)、
母山手殿の次男として生れる。幼名・弁丸。
1575年5月、長篠の戦いで
伯父信綱・昌輝が戦死し、
父昌幸が真田の家督を嗣ぐ。

変転

以後、真田家は織田、北条、徳川、上杉と
目まぐるしく主君を変える。
弱小国が生き延びるためには
仕方のないことだったのであろう。
上杉景勝に再度降伏した際、
幸村は
人質として春日山城に送られる。

1585年8月
神川の合戦

信州に徳川家康が攻めて来ると、
景勝は幸村に参陣を許し、上田に派遣する。
この戦いで真田昌幸は小勢にて
徳川の大軍を散々に撃ち破り
真田の名を天下に轟かせる。
幸村は兄・
信幸(信之)とともによく戦った。

1586年
(天正14年)
秀吉に仕える

昌幸、景勝の仲介によって豊臣秀吉に服従、
幸村は
大坂城に出仕するようになる。
1589年には、兄信之が
家康に出仕する。

秀吉の関東征伐に従軍

秀吉、上野沼田城を北条氏に与えるが、
名胡桃城だけは真田領として残す。
しかし、北条氏の猪股範直が
名胡桃城の不意を襲ってこれを奪ったため、
これを口実に秀吉による北条氏討伐が始まる。
昌幸、信幸、幸村父子も
北条氏攻撃に出陣し、
上野松井田城、箕輪城、鉢形城をおとす。

1591年
(天正19年)
朝鮮出兵に従軍

名護屋在陣を命じられ秀吉の馬回りとなる。
1594年、従五位下
左衛門佐に任ぜられ、
豊臣姓を称す。秀吉の重臣・
大谷吉継の娘と結婚

1600年
(慶長5年)
関ヶ原の戦い

石田三成の密使が下野犬伏の陣を訪れる。
昌幸、幸村は西軍、信幸は東軍に味方することを決意。
昌幸父子、上田城に帰り、籠城。
中山道を行く徳川秀忠軍、上田の支城砥石城をおとし、上田城に進軍。
昌幸、幸村父子はゲリラ戦を用い、
徳川軍3万を攪乱し、撃破する。
9月11日になって秀忠は上田攻略を諦め、
関ヶ原に向かうが、決戦に間に合わず、家康に叱責される。
しかし、本戦の関ヶ原では
東軍が快勝し、
昌幸・幸村父子は家康から
紀州九度山への
蟄居
を命ぜられる。随行はたったの16人。
それから11年後の1611年6月、昌幸が病死。

1614年
(慶長19年)
大坂冬の陣

家康が大坂城攻めに動き出す。
10月、豊臣秀頼から黄金三百枚、銀三十貫を与えられ、
大坂入城の要請を受けた幸村は、九度山を脱出して大坂城へ。
軍議の席で出撃を進言するが、
消極的、保身を考える豊臣家重臣たちの反対にあい、籠城に決する。
幸村は仕方なく、総攻撃の的になるであろう
大坂城玉造口外に「真田丸」を建築し立て籠る。
12月、東軍の前田、松平、藤堂、井伊らの軍勢が
一斉に真田丸に攻め寄せるが、
幸村は父ゆずりの戦法を駆使して
大勝した。
容易に落ちぬと見た家康は和睦を申し入れ、
幸村に信濃1国を条件に降伏をすすめる。
しかし幸村は やんわりと はねつけた。

和睦の証として、大坂城の堀はうずめられ、
幸村が苦心して築いた真田丸も取り壊されてしまう。
幸村の奮戦空しく、大坂方の重臣は家康の謀略にまんまとはまっていく。

1615年
(元和元年)
大坂夏の陣

 幸村、家康本陣を急襲!!
正月、幸村は大坂城内より上田の姉たちに向け、
手紙を送る。死を覚悟しての決意ともとれる。
そして関東勢が再び攻め寄せる。

5月6日、道明寺の戦いにて後藤又兵衛・木村重成ら討ち死。
幸村、敗走する大坂方の殿軍を務め、
伊達政宗騎馬鉄砲隊1万5千を蹴散らし、見事な退却戦を演じる。
関東勢は真田隊に恐れをなして追撃して来ない。
幸村は「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と叫び、帰還した。

翌日、幸村は子の大助を大坂城内に送り、秀頼の側を守らせる。
正午、戦いもたけなわの頃、大坂方の各隊は次々と崩れ始める。
真田隊は奮戦していたが、
やがて、幸村の影武者数名が多くの東軍を引き付け、
手薄となった家康本陣に幸村本隊が
突撃した。
手薄とはいえ
味方は3000、敵は15万
真田軍、ここが死に場所と、
一世一代の奮闘を見せ、家康の旗本勢を蹴散らし、
大将旗を倒すまでに追い込む。
家康は三方ヶ原以来の屈辱を味わい切腹を覚悟したが、
側近に諌められ、思いとどまったという。
真田軍は1度ならず2度、3度と突撃をくり返したが、
3度目の突撃で
幸村以下全員が討ち死
闘いに疲れきって安居天神で休息中、通りかかった
松平家鉄砲組の西尾仁左衛門に首をとらせたともいわれる。

翌日、大坂城は落ち、豊臣家は滅亡した。
息子の大助も秀頼に殉じた。
戦後、その武勇にあやかろうと幸村の首から髪の毛を
抜いて持ち帰る兵が大勢いたという。
また、その凄まじい戦いざまを見た島津家久は
真田日本一の兵(つわもの)。古よりの物語にもこれなき由…」
との評を国許へ送った。

幸村人気はその後も高く、
死後、九州へ逃れ秀頼をかくまっているなどの生存説が根強く流れた。

関連映像
関連史跡
ドラマ 真田太平記
上田城
真田幸村の謀略 
大坂城
 風雲!真田幸村
 

関連書籍
真田太平記

池波正太郎 著(新潮文庫、全12巻)
天正10年の武田氏滅亡から、関ヶ原を経て大坂の陣、元和8年の信之の松代移封までを描いた傑作。俗に言う「十勇士」でなく「草の者」と呼ばれる忍者や架空の人物も違和感なく生き生きと描かれている。

真田幸村

海音寺潮五郎 著(角川文庫、上・下巻)
若き日の幸村を爽快に描いている。忍者も登場する。

軍師 真田幸村

近藤精一郎 著(新人物往来社)

真田軍記

井上靖 著(角川文庫 短編)

真田幸村

柴田練三郎 著(文春文庫)

真田幸村
-物語と史蹟をたずねて-

松永義弘 著(成美文庫)

群像シリーズ7
「真田戦記」

学研

イラスト
真田幸村、
最後の出陣


戦国ファンが斬る! 幸村 評

哲坊

最期について、色々な記述がありますが、個人的には「真田太平記」の描写が一番気に入っております。(03.8.26)

ララ

私も今「真田太平記」読んでます。すっごくおもしろいですね。大河ドラマは「独眼竜政宗」くらいからしかわかりません。真田太平記も大河ドラマになってたんですね!!是非見てみたいです。(03.9.23)

哲坊

ララ殿、ようこそ。「真田太平記」は、大河ドラマの番外編として、1985年に「水曜時代劇」として放映されていました。しかし、そのせいかあまり有名ではないんですよね。そして、1993年頃、夕方4時頃に連日再放送したことがありました。ビデオでも是非出て欲しいものです。(03.9.23)

沮授@tRTK

幼き頃を人質として育ったあたりは、宿敵の徳川家康と境遇が似ているところがありますな。幸村実兄の舅である、本多忠勝が助命してくれたことにより、その後、幸村が、忠勝の主君である家康を倒すべく、波乱の10余年の人生を送ることになったのは感慨深いですな。 忠勝の立場で考えると、目頭が熱くなったりします。こないだ久々に、大河ドラマ「武蔵」にチャンネルを合わせてみたら、幸村が紀州高野山に蟄居している際の場面でした。ちなみに幸村役は、中村雅俊でした。雅俊ファンとしては納得のキャスティングでありました。(笑) (03.10.12)

哲坊

「武蔵」では、意外にも大坂の陣がクローズアップされるようで。(もっとも、戦国ネタとしてはそれが最後の打ち上げ花火だからもっともですが)幸村はチョイ役かと思いきや、武蔵との絡みもあるようで嬉しい限りです。中村雅俊については、とんがったクチは仕方ないとして(笑)。

実際、幸村は老け顔だったというし、なかなか雰囲気が出ていて良かった気がします。鎧を着た時の活躍が楽しみになってきました。個人的にベスト・キャストだと思っている、草刈正雄を超えられるか(笑)?(03.10.12)

おみさ

なんて言ったって私の中の幸村様は真田太平記の草刈正雄でしたよ。父親は丹波哲郎です。だから他の人が役をしてもあまりピンときません。ただ唯一NHKのドラマで「風神の門」だったか定かではないのですが竹脇無我が幸村殿の役をやったときはあ〜幸村はこういう感じの人だったんだろうなぁ。と思えるような演技でした。でも本当の眞田幸村殿がNo1ですが。確認したいので原作司馬遼太郎の「風神の門」ビデオ発売してほしーい!!(03.11.1)

ひーちゃん

池波正太郎氏の「真田太平記」全12巻を読み、真田親子の大ファンです。昌幸、幸村が暮らした九度山に先日行ってきました。何にも無い所で、さぞや寂しい暮らしだったのでは・・・と思われます。幸村が信之の様に徳川方についたら歴史はどう変わっていたのでしょうか?また、実は信之は幸村の弟だったという説も…? ミステリアスですね。(03.11.1)

おみさ

昨年の夏私は大阪の天王寺近くの安居神社に行って来ましたが探すこと一時間弱(タクシーの人もわからなくて)やっとたどり着きました。炎天下の下、幸村殿の終焉の地を見た私は明鏡止水の心境になりました。その場所は静かで少し荒れてはいたものの、当時の幸村殿の心境になれたようでした。

心静かに何の曇りもない思いでここで生涯をとじたんだと。この時代沢山の勇猛果敢な戦国武士がいましたが本当の男の典型がこの時代には沢山いたんだろうと思います。その中で私は真田幸村という方にめぐり合えたのは幸せだと思います。(03.11.30)

哲坊

安居神社、自分も7〜8年前に行ったことがあります(カメラがなく、写真を撮らなかったのが残念、どなたか投稿いただければ有り難いです)。観光客も少なくて静かだし、幸村の最期を偲ぶには最高の場所ですな。

戦国の世は、毎日が生きるか死ぬかの過酷な時代ではあったと思うけれど、男が本気で生きることができた、いい時代だったと言えるのかもしれませんな。拙者とて今の平和な時代の男だから、こうして好き勝手なことが言えるわけですが。(03.11.30)

茶奈(ちゃな)

真田幸村は私が歴史マニアになったきっかけの人です! かれこれ3年近くらいはたつのですが、この気持ちは不滅です! 私にとっての救世主であり、人生の御見本にしたい人です! ちなみに、私は佐竹伸吾さんの「真田幸村」を見て死にそうになりました。「真田幸村マニア」と言うのは私にとって最高のほめ言葉です。(04.6.22)

哲坊

今年5月から、「スカイパーフェクTV!」の時代劇専門チャンネルにて、噂の「真田太平記」が放映中(毎週水・日曜)です。「真田ファンなら、このドラマのためにスカパーに加入せよ!」と言えるぐらいの名作ドラマですぞ!(04.6.22)

僕が真田幸村と出会って10年。それでも彼への尊敬の念は増す一方です。父安房守昌幸に隠れ、それほど注目されていなかった幸村が大阪の陣での真田丸における活躍は正に天下に真田幸村ありということを知らしめることとなりました。(04.7.28)

はな

私も幸村に心酔している者の1人です。 生まれてくる我が子(男の子予定!)にも『幸村』と名付けようか思案中の身です(笑)。 私が好きなもう1人の武将、伊達政宗が臣、片倉景綱の子・重長の義父でもあるしね。(04.7.28)

哲坊

こういう格好いい名前には、日本男児として憧れてしまいます。親や祖父が、はな殿のような歴史好きであったらなあ…(笑)。名前決まったら、ご報告お待ちしています。(04.7.28)

ヒョードル

昌幸・幸村親子は正しく天下を取れる器だったと思います。しかし運がなく、嫌われ者の石田三成や人を信用しない大野治長や淀君といったアホどもによって悲運にみまわれてしまいました。西軍にも、小西・島津・大谷・毛利・木村・後藤・薄田など数多くの名将がいただけに400年たったいまでも悔しい気持ちで一杯です。(04.7.28)

はな

先日、生まれました!やっぱり男でした。名前は幸村……………にしたかったんですが、字画の都合から(前田)慶次にしました(笑)。まぁ、慶次も好きだからいいか。 (04.8.23)

才蔵 殿

「風神の門」では確かに竹脇無我が演じました。真田太平記もいいのですが、どうしても真田幸村というと25年?たった今も竹脇無我を連想してしまいます。かっこよかったなーDVDでみたい。(04.8.23)

マイル 殿

かなりの長文になってしまいますが、なかなか表に出ない、主家・海野家に関する情報なども。「幸村」と言う名があまりに有名ですが、データにもあるように本名は「信繁」と言い、武田信玄の弟・信繁のような名将に育って欲しいと願い、信玄の許可を得て名づけたそうです。「信玄と信繁」の関係は「豊臣秀吉・秀長」の関係と良く比較されますが、昌幸もこういった形で「信幸・信繁」の兄弟関係を築いて欲しかったのではないでしょうか。事実、若い頃は信幸が槍働きも良く武勇に優れ、幸村は細身の体と人当たりの良さで、戦場での働きよりもまとめ役のような立ち位置だったとの資料も残っています。その二人が関ヶ原以後相対する陣営に別れ、信幸は真田家を存続させるために領地経営・外交に奔走したのに対し、真田家という縛りの消えた幸村が打って変わって武勇を轟かせ始めたのは皮肉としか言い様がありません。

ちなみに真田家三代に共通する「幸」の一文字ですが、これは真田家の宗家・海野家の嫡流に継承されてきた文字です。真田幸隆の父(諸説あり)の海野棟綱は元服時は幸綱と名乗り、棟綱の嫡男は左京太夫 幸義(幸隆は次男、三男は矢沢頼綱)、幸義の嫡男は幸貞と言います。海野家は1541年、武田・村上・諏訪の連合軍に破れ(海野平の合戦)、棟綱の嫡男幸義は戦死、棟綱と幸隆(当時は海野小太郎信隆)は上野の長野家に身を寄せている一族を頼ります。

この戦で信州への足がかりをつかんだ信玄は2ヵ月後、父信虎を追放して家督を強奪。この時、幸義の嫡男幸貞は武田家に降伏し、妹を武田信玄の次男龍宝(出家)に嫁し、海野の嫡流を譲ります。これにより海野と姓を変えた龍宝を還俗させ、信玄は海野郡一帯における民衆の反発を回避します。当然棟綱はこれに怒り、上野の地より幸貞の勘当を宣告。幸貞は1583年に謀叛に失敗して処刑されています。その後、詳しい年は不明ですが、棟綱は当時信隆に嫡流の証明である「幸」の一文字を与え、ここに幸隆と言う名が誕生します。その後幸隆はいつまでも幕府・関東管領の権威にこだわる棟綱と反目し、甲斐の虎と呼ばれていた武田家へ下ります。信玄は海野家嫡流を継ぐ幸隆の参陣を大いに喜びますが、すでに海野家嫡流は次男・龍宝が継いでいる(上野に逃れた棟綱の勘当宣告など、当然何も意味がなかった)ため、幸隆の舅・真田頼昌の養子として真田の名を継がせます。ここに、ようやく真田幸隆が誕生するわけです。

幸隆の長男は信綱と言う名です。今となっては分かりませんが、幸隆は自分のように、最初は自身の信隆の「信」と父棟綱の「綱」を継がせ、後にその器量を見極めた後に「幸」の一文字を与えるつもりだったのでは、と勝手に想像しています。幸隆の父・棟綱は智謀の師として名を馳せましたが、海野家より代々伝わる「幸」の一文字が、「幸隆」「昌幸」「信幸」「幸村」とその智謀と共に伝わって行ったのですね。ちなみに海野家は望月・禰津の両家(どちらも海野家から派生した分家)と共に「滋野三家」と呼ばれることもあります。真田十勇士に海野・望月・禰津の名があるのも当然と言えば当然ですね。

最後におまけ情報として・・・その後海野家一族は散り散りになりますが、信州はもちろん静岡に流れ、豪農として家を建て直した一族もあります。これを北原海野家と言い、1592年、棟綱の孫と目される人物(名称不明)が一族と共に現在の静岡市曲金に移住し、その子(あるいは孫)の忠宗が初代となり、北原海野家を名乗ります。この北原海野家は現在の15代まで続いており、第12代当主の海野厚氏は、童謡「せいくらべ」「おもちゃのマーチ」等の作詞・海野厚一の名で有名です。

長々と失礼いたしました。こちらのサイトを見て非常に面白く、真田家についても色々と書かれているようなので、何かの参考になればと思い、長文を記させていただきました。なお、釈迦に説法かとは思いますが、真田幸隆の生い立ちについては諸説あり、ここに記したものはその一説に過ぎませんので、ご注意を。(04.10.5)

躑躅 殿

兄信之が大兵を用いるのに長け、弟幸村は寡兵を操るのに優れていたようです。幸村は戦国時代における最強の武将の一人といって良いでしょうな。かの大阪冬の陣では、大阪城のツボをおさえた真田丸を構築し、関東勢に大勝。更には夏の陣において片倉重長が指揮を執る伊達騎砲隊相手に見事な戦いを演じ、僅か三千の兵をもってして敵本陣を急襲するなど、「日本一の兵」とおくりなされるのに恥じない将でしょう。(04.12.31)

田村真幸

『風神の門』は名作でしたねぇ。内容的には原作を超えていたと思います。竹脇無我氏の幸村もよかったですが、三浦浩一氏の才蔵、渡辺篤史氏の佐助など、なかなかナイスなキャスティングでした。でも、幸村役は、個人的には若林豪氏がベストキャスト!たしか、3度ほど幸村を演じておられますねぇ。

あと各所で、映画『真田幸村の謀略』で幸村が隻眼になる意味が不明との評論が多いですが、これは、当時人気があったアニメキャラ「キャプテンハーロック」(『銀河鉄道999』にも登場)へのモチーフです。「私は六文銭の旗の下、己の信ずる物のためにだけ戦う」。「六文銭」を「ドクロ」に換えてみましょう。ほら、ハーロックでしょ?(05.1.24)

袁煌龍

真田左衛門佐幸村。本名を信繁と言うのは今やそれほどマイナーな話でも無いだろう。信繁の名は武田晴信(信玄)の次弟であり信玄の片腕となって軍政両面に活躍した名将・武田信繁に由来する事は、このサイトを訪れておられる方々には説明の必要も無いだろう。かつては家督の座を争った間柄でありながらも兄である信玄に絶大な信頼を寄せられたほどの人徳を備え、第四次川中島合戦で戦死するまで軍政両面に渡って兄の覇業を支えた名将であった事は武田・真田ファンには余りに有名な事実である。この信繁と言う名を名乗れる事がどれ程名誉な事か。

かつて信玄の小姓として仕えその活躍を目の当たりにしてたであろう幸村の父昌幸が信繁の姿に憧憬を覚え、我が子の名に信繁の名を与えようと望んだのも当然の事であっただろう。或いは信玄にとっての信繁がそうであった様に、為政者として非凡な才を持つ長男信之のよき補佐役であって欲しいとの願いもあったに違いない。尤も最終的には幸村が武田信繁の様に兄の補佐役として活躍する機会は訪れる事が無かったが、ともあれかの武田の名副将の名に恥じない名将に成長したのは誰しも認める所だろう。

個人的に印象に残っているのが「真田太平記」の大阪夏の陣直前における信之との対面のシーン。無論多くの方々が挙げている最期のシーンも印象的だが、それぞれ己の信念を貫き歩を共にする事は無かったものの、お互いを理解しつくした兄弟の今生の別れの中に交わされる遣り取りで垣間見える揺ぎ無い信頼関係は、決して不仲な兄弟ではなかっただけに非常に哀しくそして清々しい。大阪の陣に於いて自分に代わって真田の名を天下に轟かせた幸村の事を後々信之は生涯の誇りにしていたと言う。その意味では幸村は信之にとっても、信玄にとっての信繁以上に良き弟だったのではないだろうか。(05.3.23)

おみさ

地元ケーブルTVに加入しました。昨年の11月からです。まさに時代劇専門チャンネルの「真田太平記」を見たさに加入した一人でございます。だいぶストーリーは進んでおり真田昌幸・壷谷又五郎のシーンなど見られませんでしたが真田幸村はTVの中で生きておりました。久々に見る真田太平記は当時のCGを苦慮した背景が垣間見られ懐かしさに溺れる日々でございます。幸村のたった一人の戦いを私たちは現代になって実感し幸村自身の生涯をどう感じるかを再度、私は感じたいと思います。でも実感するのは本当にたった一人の戦いだったんだという事です。(05.3.23)

s.kazu

「眞田太平記」を無我夢中で読んでしまいました。幸村の生き様に痛く感動し、寝ても覚めても幸村が現れ、青春時代に、恋する人に恋焦がれたような状態に陥っています。時間を捻出して幸村のたどったルーツを訪ねてみようと思っております。この年で、こんなに熱く燃えるとは、思ってもいませんでした。(05.11.19)

相馬 信人 殿

中国史を専門としている為、日本史は端々の人物列伝くらいしか知りませんでしたが、幸村だけは別でした。元来マイナー志向の私が、唯一好きになったメジャーな人物でもあり(それでも体制側ではありませんが)、小学生の頃から情報を仕入れる度にその度合いを深めていきました。ただ、学研の歴史マンガで幸村を知って以来、彼に関する書物や映像を殆ど目にしておりません。詳しく知るようになったのは、Webで色んなサイトを検索してからです。

それでも、学研マンガに描かれた幸村像と何ら遜色なく、寧ろ小学生当時から変わらぬ精彩を放ったままです。彼の逸話で気に入っているものは、関ヶ原以前に信幸と別れた際、信幸の妻・小松に沼田入城を断られた段です。結果として昌幸は孫の顔を見ていますが、備えを厚くした小松の態度に怒った幸村が、城に火をかけようとした下りが。大阪の陣では、冷静で鬼謀を操る兵法家というイメージがありますが、若いときは若かったんだなぁと微笑ましくなります。信長が本多忠勝を『日本の張飛』と評してますが、この逸話の方がよっぽど張飛らしいと思うのは私だけでしょうか。(06.3.9)

来宮 縫

私が幸村に会ったのは戦国無双からです。そのゲームで幸村に惚れてしまい、夏休みに調べる事にしました。思ったんですが、最近小学校で真田幸村って知ってる?と聞いても知らないと答える人が多いです。結構有名でうちの小学校で大阪城に行くのに知らないとは・・。ちゃんと大阪城回ってんのか!って感じです(笑)自慢ではないんですが、うちの近くに家康が逃げ込み、幸村が追いかけてきた元葦が生えてあった大学があります。見てたら幸村はここに来たんだなぁー。と妄想を膨らましまくりです(笑)。 (06.8.19)

蒼龍

尊敬する歴史人物NO1です!関ヶ原の戦いでは上田城で、家康の息子、秀忠の大勢の援軍を父昌幸と共に返り討ちにしたんですね!すっげぇ尊敬してます!他にも大阪夏の陣で、たった三千の兵を連れて家康本陣を急襲して、追い詰めたのですが、最後の最後で討たれてしまったと・・・!非常に残念です・・・。だけど『真田日の本一の兵』と称されたんですね!本当に強かったんですねぇ!ここの説明を見て改めて知りました。幸村大好きです!(06.8.19)

才蔵@

真田幸村が戦上手であるということは、歴史ファンなら、大抵の方が知っていると思います。私も異存ありません。彼こそ戦国時代の最後を飾るに相応しい、華であったと思います。ただ政治家としての彼はどうなのでしょうか? 兄の信之は政治家だったと思います。徳川の世を見事に生き抜き、真田の命脈を保ち続けました。

同じ事が果たして幸村に出来たかどうか。私はどうも彼を義経と重ね合わせてしまいます。勿論、義経のような幼児性は幸村には感じられませんが、しかし共に戦場でしか輝けない哀しみのようなものを感じるのです。政治と謀略に散った義経と、戦場で華々しく最後を飾れた幸村。幸村は幸せですね。でもその幸せも、政治に長けた兄信之の存在あってこそのものと、そう思わずにいられないのです。 07.1.28

岳飛

大阪夏の陣の誉田の戦いで、伊達隊を率い真田隊に破れた片倉重長は戦後、幸村の三女の阿梅を正室に迎えています。敵であるにもかかわらず尊敬していたのでしょう。こうして、幸村の血は片倉家に受け継がれました。幸村の次男大八も重長に匿われ、片倉守信と名乗り360石を与えられ片倉家に仕官しています。 子の辰信の代に真田姓に戻し、仙台真田家は明治の世になるまで続いています。

片倉一族に六文銭の紋を付けた者もいたようですが、真田に縁故がある者でしょう。 また、真田六文銭を片倉家の替紋として使用しました。かつての敵は今日の友。 幸村の旧臣達も伊達家に仕官しました。 阿梅は天寿を全うし、天和元年に78才で死去したようです。07.5.5

重義

希代の名将として名高い幸村ですが、どうやら傲慢だった所もあるそうです。1615年5月6日、豊臣軍は道明寺の戦い・後半戦で引き分けたが、若江・八尾の戦いで友軍が敗北したため、撤退を決めた。そこで諸将は毛利勝永の陣に集まって撤退の方法を話し合った。そしてクジで撤退する順番を決めて退くということになったが、真田幸村が、「それには及ばない。私が一人で敵を引き受ける」と言ったため、諸将と幸村の口論となった。それを黙って見ていた明石全登だったが、このままだと八尾・若江方面と道明寺方面の徳川軍に挟み撃ちにされると考え、「これでは切りが無い。私が最初に撤退するので後は最初決めた通りにしてくれ」と席を立った。そこで諸将も口論を止め撤退していったという。(『北川遺書記』など)
http://tikugo.cool.ne.jp/index.htmlより。ちょっと批評になりましたがお許しを^^; 07.5.5

月麻

大坂夏の陣での討ち死には然ることながら、逸話もかっこいい幸村・・ かなり脚色や後世の作り話が多いって聞きますけど、火のないところに煙は立たないですからね。今年で幸村を好きになって5年。まだまだ熱が冷めないどころか日に日に好きになっていくばかりで・・。良い意味で人生狂わされています(笑)。こんな風に幸村好きがたくさんいることはとっても嬉しくおもいました。ありがとうございます。07.12.22

南国

正直言って、実力は未知数が大きいと思う。上田攻め、関が原での足止め、大阪冬の陣、同夏の陣。大きい戦を四回体験しているけど、面白い所は全部、防御側ってことだよね。父の昌幸のように、たくさん修羅場を潜ってきてるなら別だけど、この四回の戦い、それも防衛戦で、彼の実力を測るのは難しいと思う。それを踏まえても、強かったのは確かだろうな。07.12.22

重義殿の評も幸村を美化しすぎない貴重な物だと思います。南国殿の言う通り、幸村が準備万端の攻めの戦を仕掛けたらどんな展開を見せてくれるのかも気になるし、また守備からの反撃能力に秀でた将だったのかも知れません。妄想と期待が止まらない武士だと思います。

最近では戦国無双や戦国バサラなど脚色をかけたゲームが売れてますが、そこからでもいいので幸村に真っ直ぐな興味を持ってもらえる人が増えたら一ファンとして嬉しいです。七転八倒な生涯を、六文銭を背負い天下一の覚悟をまとって生き抜いた幸村。正に真の武士と言えますよね。09.5.11

幾松

改めて、幸村さんは凄いですね。私が幸村さんと出合ったのは【戦国BASARA】と言うアニメです。そのアニメを見ながらだんだん幸村さんに興味がわき、思わず書き込みさせていただきました。本当に私が思うには【凄い】と言う言葉しか頭にしか出なくて自分でも驚いています。これから先、もし良い機会があれば幸村さんについて色々なことを知ってゆきたいです。09.5.11

 

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