島 原 城

所在地

長崎県島原市城内1

交通

JR諫早駅より島原鉄道乗り換え・島原駅より徒歩5分

築城年

1618年(元和4年)

築城者

松倉重政

主な城主

松倉重政、松平氏

主な遺構

石塁、濠、天守閣(復元)、各種(復元)

訪問おすすめ度(5段階評)

★★★3

城の背景/もとはキリシタン大名・有馬晴信の領地であったが、1616年、松倉重政が入城。7年余の歳月を費やして築いた。別名・森岳城。南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所。5層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪壮堅固な城構えだった。島原の乱は1637年、2代城主・松倉勝家のときで、原城に篭った一揆軍を撃退したものの失政の責任ととって切腹。城は松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・松平氏と4氏19代253年間の居城だったが、1874(明治7)年に廃城となり、民間に払い下げられる。昭和39年に天守閣や各種櫓も復元された。

現在、城内の建物はキリシタン史料館(天守閣)、北村西望記念館(巽の櫓)、民具資料館(丑寅の櫓)などに利用されており、南蛮貿易時代から、宣教時代・禁教時代・弾圧時代、島原の乱関連の資料が展示されている。
(2002年1月12日撮影)


下から見上げる天守閣の勾配が見もの。

天守閣内の資料館。


あまり「美少年」らしくない
天草四郎像(笑)。

なぜか四郎の隣に「若き日の信長像」が…。
謎である。

島原城近くにある武家屋敷。
城の建設に携わった兵らの住居であった。

かつて武家屋敷の連なっていた通り。
今でも3軒ほど武家屋敷が残る。

江東寺にある、島原の乱の征討軍総師として奮戦し、討ち死した板倉重昌の墓。
大きい方は後世作られたもので、右の小さいほうが当時のもの(一時土砂で消失したらしい)。

戦国・史跡ファンによるご感想と情報

肥前守左馬之助 殿

この城、少ない石高の大名にしては、破格のスケール。そのために民衆への圧政や年貢の取立てがきびしかったらしいと、昔、わしの父が申しておりました。(02.3.13)

mei 殿

松倉家の姫に「松」という人が居たらしいのですが、詳しい情報が欲しいです。よろしくお願いします。(04.2.8)

家久 殿

昨年このお城に遊びに行って堀に落ちてしまいました。みなさん気をつけましょう。特に雨の時はね…。(04.3.8)

哲坊

えっ!? それで、大丈夫だったんですか(笑)?

家久 殿

連日の豪雨で掘と土の足場との境界線が曖昧になっており、思わず足を滑らせて…。龍造寺軍と同じ悲惨な目に遭いました。(04.10.5)

牧内 殿

島原城、堀が水草で埋め尽くされている季節に行って参りました。熊本からフェリーでたどりついた駅が小さすぎて見つけられず苦労しました。(苦笑)。でも、お城のそばの駅はお城っぽい装飾で、なんとなく風情がありましたねえ。天守閣の入り口のすぐ近くが駐車場だったのは驚きでした。07.5.5

 

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