(じゅんいく)

曹操の覇業支えた才人

祖茂殿作画



(あざな)文若(ぶんじゃく)

生没年/163〜212年(49才)


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 能力検証

武 勇

2

 

 
 

 

 

 

 

 

幕僚という仕事柄、兵を操る場面はほとんどない。事実、戦の時は留守を守ことが多かった

「二虎競食の計」「駆虎呑狼の計」など様々な策を献じた三國志を代表する策士

風貌も立派だったとされ、名門の人脈を利用して甥の荀攸や司馬懿ら優秀な人材を推挙した

曹操の出征のさいには常に留守をまかされた。若い頃から「王佐の才あり」と多くの人に認められており、戦略のみならず、国政も担った

戦 術

3

 
 
 

 

 

 

 

知 略

9

 

カリスマ

7

 

 

 

人 望

8

 

 

外 交

9

 

内 政

9

 

 


デビュー/
26才で宮廷に仕えた後、冀州に移住、袁紹に仕えるがその器に見切りをつけ、曹操に身を寄せる。曹操は「わが張良を得た」と喜んだ。
最 期/曹操が魏王になろうとした際に反対し、恨みを買う。のち、病気と称して自宅にひきこもり病死。曹操から贈られた食事の蓋を取ると、中身が空だったので、それを見て自殺したともいわれる(49才)。

 

三国志ファンが斬る!荀イク評

新荘剛史 殿

曹操の初期の戦略に大きく影響を与えた名臣。
特に彼が推挙した頴川近辺の人材は、
曹操の智を支えていたといったも過言ではあるまい

紫龍 殿

蒼天で初めて年齢差を実感した。

香香 殿

荀イクと袂を分かつたのが、
曹操の天下統一挫折の始まりと言えましょう。
もしかしたら、曹操は荀イクのもつ
名士ネットワークに脅威を抱いていたかも・・・。

劉表 殿

私はむしろ彼は漢の忠臣と考えたい。曹操をかつぐこと漢王朝のためになるからそうしていたのであって、公位騒動は漢の忠臣vs曹操家臣の対決の頂点だったと思います。彼を魏の忠臣だったトウガイあたりと対比するのも面白いかも。

新荘剛史 殿

私としては「秘本三国志」の死を覚った荀イクが
その死を利用して敵対勢力を洗い出そうとした説を取りたい。
そうでなければ袁紹が官渡で負けた際、
袁家を盛り上げていなければ辻褄が合わないので…

六波羅文乃 殿

この人抜きで曹操軍は語れないですね。

哲坊

曹操の軍師といえば、この人がまっ先に思い浮かびまする。

びいたん 殿

私はやっぱり郭嘉が思い浮かびます〜♪
程イクも好きです〜♪

まさよし 殿

私は、三国志の中で この人が 一番頭が良い(広い意味で)と、
信じております。気の合う人募集中!!

伊伊 殿

曹操との公位騒動は、この人の最後の勤めって感じがします。曹操に惚れ込んで自分の死を悟ったから、禅譲反対派を洗い出したかったのでは・・・。
そもそも、講談は曹操を落としすぎてるから・・・。この人は三國志の中でも好きな方だな。

安全 殿

荀イクがエン紹の幕僚たちの欠点を次々に指摘したとき、なぜ郭図の名前をあげなかったのか・・・(名前が出たのは田豊・許ユウ・審配・逢紀)。袁紹は官渡の戦いで、審配や逢紀よりもむしろ郭図のせいで負けたようなもの。つまり最も駄目な幕僚は郭図のはず。その郭図の名をなぜ荀イクは挙げなかったのか・・・。いくら考えてもわかりません。皆さんはどう思いますか?

千葉 殿

「書物に書かれていることや遠方の出来事、それらをわしは自分の耳や目で聞いたり見たりしているが、百数十年間にわたって、荀イクに及ぶ賢才は存在しない」と司馬懿は荀イクをたたえていたそうです。

郭奉考 殿

曹操軍No1軍師といえば彼か司馬懿ではないでしょうか。少し前までは郭嘉だと思ってましたが政治力も考慮して最近考えを改めました。ゲームの「魅力」に関しては、彼を曹操の臣とみるか、漢の忠臣とみるかで評価の変わる所。個人的にはそこまで高いとは思わないのですが。 (02.10.13)

今仲達 殿

曹操軍の筆頭参謀とも呼べるべき奇才の持ち主。曹操の「我が子房」というのも分かる気がします。とくに戦略を立てさせたら右に出るものはいないでしょう。曹操の信頼も抜群で、留守と言えば必ずというほど荀いくが任されていました。人材の発掘も見事で、幾多の人材を推挙した功績も大きいでしょう。いろいろと考えると曹操はこの人なくして覇業を達成できなかったと思います。(03.4.25)

劉備@tRTK 殿

郭嘉はあくまで謀臣、総合的なことを全て踏まえて補佐をしたのはやはりこの人なのでしょうね。(郭嘉やその他参謀がどうというのではなく、あくまで役割の意味において)  (03.4.25)

国司無情 殿

私には軍師・参謀というよりは宰相格のほうがピッタリきます。その最期は謎めいてますが、荀イクがこの時代きっての有徳者であり儒教が根強い時代だったことを考慮すると、曹操は周の文王のようになることで筋を通す考えだったのでしょうが、荀イクは曹操も自分達も漢臣であり続けるべきと考えていたのでしょう。荀イクは推挙した同僚達も自分に賛同しないことを知り、曹操には警戒されるようになり、心労の果てに病で亡くなった。とみるのが(荀氏一族には早世の人も多いですし)自然かと。そういえば演義が原作なはずの人形劇では、なぜか諌めて即病死でしたね…袁紹の幕僚の件は、孔融の批評への反論で、孔融が郭図を挙げてないので話に上らなかったのでしょう。或いは郭図は同郷で漢室奉迎派だったので、ある程度才能を認めていたのかも知れません。(03.10.11)

尚書令 殿

曹操の覇業は荀イクとの二人三脚で成功した。と言っても過言ではないでしょう。人材推挙や後方兵站など大きく貢献しています。「公位騒動で曹操から疎まれた。」と書かれていますが信じられません。今もその死を考え続けています。 (04.10.3)

伯拓 殿

はっきりと「容姿が優れている」という記述が書かれている数少ない武将なのに、なんで「三国志」シリーズではあんなブ男に描かれてるんでしょうねえ?なまずひげを蓄えた子供みたいで。甥の荀ユウは特に容姿について特に記述がないのに、IXであんなにカコイイのに。

あと、最近の彼の政治力の急上昇についてはどういう根拠があるのでしょうか?自分の中では政治家よりは策士としてのイメージのほうがはるかに強いですし、陳羣、諸葛亮、蒋エン、費イ、呉の二張などのなみいる政治家を抑えて彼が政治力99という高得点で一位になる理由が分かりません。もし、正史に彼の政治的業績が記されているのであれば誰か教えてください。(04.11.1)

一人三国志 殿

曹操軍が初めの頃は人材も少なく、また曹操が清流の士が最も嫌う宦官の出だったので、荀イクみたいな名門中の名門の人が郭嘉や荀攸、程cなどを推挙して人材を集める事によって、曹操と荀イクの二人三脚が成り立っていたと思います。荀イクが留守を預かる事が多かったのは、第一に信頼できることと、第二に軍才的に曹操の8割は維持できる事だったのでしょう(呂布がエン州を荒らした時も荀攸と程イクは死守しました)。王佐の才と言われ、曹操にとって切っても切れない存在だったと思います。

それが変わったのが、曹操軍が袁紹を破ってから人材がどんどん集ってきたことや、曹操の人材登用が、荀イクの推挙(名士の推挙)を受けて入れるような儒教的制度から、能力主義で人材を集めるようになって(九品官人制)からだと思います。その頃になると荀イクの代わりはごまんといたのでしょう(と言っても荀イクの8割くらいの能力の人であって、やはりこの時代ではトップランクの人材だと思います)。魏には徐庶クラスがごろごろいたのですから。(04.11.1)

ゆぅ 殿

「王佐の才」「今張子房」などと呼ばれた彼は、常に曹操の側に居て、支えていたのでしょう。彼が荀ユウや程イクを推挙したのは有名ですが、これは荀イクの名士という地位そして人望の為せる業で、常に幕僚達のリーダー格だったと思います。

最期は皇位継承をめぐり曹操と仲違いし、憂悶のうちに死すも、その死を知った曹操は大いに後悔し(じゃあ同じように荀ユウ殺すなよ・・・)敬侯の名を送ったらしい・・・ですが彼の死について、正史を注釈したハイショウシは「凡人がしないような間違いを、荀イクがするはずが無い・・・」と述べています。私は彼の死を病死だと考えるのが自然だと思いますが・・・。どちらにせよ、彼はおそらく魏の幕僚団の筆頭だったであろうし、私が三国志で一番好きな人物であることは間違いありません。(05.5.22)

千氏 殿

彼がいなければ曹操の繁栄はなかったと言っても過言ではありません。ただ彼の場合まじめすぎる性格がたたって曹操と不仲になってしまい結果的に自分の寿命を縮めるに至ってしまった・・・。彼の死が自殺であったか、はたまた病死であったか。このことは謎のベールに包まれており、多分それが開くことはないでしょう。私は荀文若と言う人物が大好きです。もしかするとそれは現代に彼のような人間がいないためかもしれません。(05.7.11)

神無崖縁 殿

自分は前半の三国志が好きなので曹操の軍師=郭嘉or荀イクというイメージが非常に強い。その中でも自分は荀イクが好きだ。二虎競食の計、駆虎呑狼の計など計略の中でも外交関係面を崩しにかかる搦め手的な策略という地味で渋い献策とあまりにも哀れな最期が自分の心をくすぐったのだろう。次々推挙したお仲間たちもみんな切れ者で・・・。どうしても司馬懿、郭嘉より人気が劣ってる感が否めないけど自分は彼が大好きであると言っておきたい(熱)。(05.7.11)

アミーゴ 殿

何故彼は死ななければならなかったのか?なんど考えても結論が出ません。曹操が漢王室を蔑ろにしたから?まさか荀文若ともあろうものがそんな馬鹿な筈は無いし。そもそも自殺なのか病死なのかそれとも他の死因があったのか。はてさて……。(06.8.16)

小狼 殿

曹操の覇業を助けた軍師の中で1番貢献したのは、この人だと、自分は思います。曹操に最も信頼された軍師でもありました。陳宮が謀反をおこした時、帝を許に迎え入れる時、天下分け目の官渡の戦いでの働き。活躍をあげればキリがないが、この人がいなかったら、曹操の覇業はありえなかったと思えるほどです。

そんな彼も、最期は、曹操に迫られて自殺しているという説がありますね。空の容器を贈られたら=自殺命令。という決まりは無いにしても、意味は解ったのだと思う。原因は、曹操が魏王になる事を、漢王朝をないがしろにする行為だと、反対した為だとか。ここで、荀ケは魏臣ではなく漢臣だった!と主張する声があがる。それでは全く意味が解らなくて、結果として漢滅亡の手助けをした荀ケは、ただの馬鹿になってしまう。

これに関して、中国のある歴史家の例えでは、一緒になって家の壁を壊して、箱を開けるのを手伝ったが、中身は盗らなかったから、彼は盗賊ではない。そんな馬鹿な話があるか!と吐き捨ててるが、全くの正論だと思います。自分が何の手伝いをしてるのか解ってなかったのなら、マヌケ過ぎて救われない。そんなわけで、やはり荀ケは病死したんだと解釈しています。07.1.22

隠し砦の三馬鹿

小狼さんの引用した例えを自分なりに考えて、仮に荀イクの死が病死でなかった場合の可能性を一つ考え付きました。もし荀イクがあくまで漢を守り、漢の臣として生を全うしたいと望むなら、曹操最大の腹心であり創業の功第一人者である自身にまず責を問わねばならない。その場合荀イクに取れる策は二つです。

一つは曹操の野心に対して、公的な立場でアクションを起こす事。曹魏の屋台骨である荀イクが死を賭して公的に諫言するなり、曹操を告発するなりすれば、これは曹操陣営自体を揺るがす事態に発展させられるでしょう。この案のデメリットとしては、曹魏に簒奪を完全に諦めさせるだけの致命的なダメージを与えた場合、平和的な禅譲を行うだけの余裕を完全に喪失して皇帝殺害・天下簒奪という最悪の事態を招く可能性がある事。

仮にそうならなかったとしても劉・孫陣営のみならず今も曹魏に飽き足らない全勢力に蜂起の口実を与え、曹操の統治下でようやく復興への道を歩み始めた中原を再び壊滅的な分裂と擾乱に巻き込む可能性がある事。はっきり言って曹操の簒奪を防ぐためなら天下を巻き添えに自殺しても構わんという無茶無謀強引なプロットです。

もう一つは曹操本人を説得する事。一番平和的ですが、曹操が確としたビジョンと意志の元に簒奪を目指している場合、これを翻させる事はかなり難しいでしょう。たとえ死をもって諌めたとしても無駄です。二つの案のどちらも取れない場合、そこにはもうシンプルな答えしかありません。漢の廃滅を見る前に、漢の臣でいられる間に生を終える。少なくとも、二人三脚でやってきた曹操が玉座を奪い、自分がその第一の功労者として列せられる運命をこの目で見、後世に伝えられるよりはマシという物です。

荀イクは己の死に際して遺言めいた事の一言も発していません(あるいは伝わっていません)。あれだけ尽くして来た曹操に裏切られ見捨てられて無念の内に死んだのなら、そして漢朝を守ろうという意志があったのなら、どう考えても最期に一言あってしかるべきですが、恨み言の一つも漏らさず粛々と自殺したとするならそこにあるのは、もはや言葉さえ残せないほどの絶望と苦悶の姿か、あるいは道を違え己を無用と断じた主君の非情にも異を唱えず、黙って毒を煽る愚直なまでに悲しい忠誠の士の姿のどちらなのでしょうか。

それにしても…空の器を送られ、中身がなかったと言われればそんなはずはない、ちゃんと入れたと難癖をつけられ、中身があったと言われればそんなの入れてないとまた難癖をつけられる事を恐れ、恥の中に死ぬより潔く死のうと自殺したとも言われていますが、曹操が人を殺す時はそんなしょぼい難癖でなくもっと堂々と罪をデッチ上げて殺す事は曹操の手下一号の荀イクが一番知悉していたでしょう。

もっとも、曹操に睨まれたという時点で死刑宣告に等しいのも判ってたでしょうから族滅食らう前に死ねよ、意味はわかるよね?というメッセージだと受け取って素直に死んだんですかね。単になぞなぞキング曹操とものしり博士荀イクのディスコミュニケーションだったなら黒い笑いが取れますな。08.2.13

 

この人物について貴殿の一言、お待ちしております!
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