作画/雲才

(あざな)孟起(もうき)

生没年/176年〜222年

出身/涼州扶風郡茂陵県

家族
父・馬騰、弟・馬休(きゅう)、馬鉄(てつ)、従弟・馬岱(たい)
妻・楊氏、董氏、子・馬秋(しゅう)、馬承(しょう)、娘・劉理の妻

 

武 勇

9 

 

戦 術

8

 

 

知 略

3

 

 

 

 

 

 

 

カリスマ

7

 

 

 

人 望

6

 

 

 

 

外 交

5

 

 

 

 

 

内 政

2

 

 

 

  

 

 

 

 

 

コーエー「三國志」シリーズに見る馬超の能力値変遷
陸戦指揮、水戦指揮はIIIのみ、
運勢はI のみの設定。赤字はシリーズ中の最高値

 

知力
武力
魅力
政治力
統率力
陸戦
指揮
水戦
指揮
運勢
I
62
98
84
 
 
 
 
63
II
42
98
60
 
 
 
 
 
III
43
98
63
38
 
88
77
 
IV
43
99
70
31
86
 
 
 
V
40
98
82
32
 
 
 
 
VI
40
97
85
36
78
 
 
 
VII
48
91
64
33

 

 

 

 

VIII
46
97
77
44

 

 

 

 

IX
46
97
 
44
91

 

 

 

X
43
96
82
23
89

 

 

 

Iでは知力、魅力がわりと高くなっていたが、
II以降、猪武者化してゆく…(笑)。
知力はどうやら40代に落ち着いたようだ。
IXで統率力が急上昇したのが面白い。

馬 超 (ばちょう)

涼州の群雄、馬騰の子。韓遂らと連合軍を結成して曹操に反乱を起こすが敗れ劉備のもとへ身を寄せる。韓信・黥布のような武勇を持つと評された。『演義』ではその雄姿から「錦馬超」と呼ばれており、蜀の五虎大将軍の一人にも数えられる。

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羌族とのハーフ(混血)である馬騰の実子、馬超は武勇に優れ、漢王朝の支配を受けずに暮らす異民族たちから厚く信頼されていた。

「赤壁の戦い」の前、父の馬騰は曹操に召し出されて朝廷に出仕し、衛尉となって都に滞在した。そのため、馬超は父の軍勢をすべて引き継ぐことになった。父の盟友でもある韓遂と手を組み、そのリーダー的存在となる。

211年、曹操は漢中の張魯を討伐しようとしたが、馬超や韓遂は「自分らが討伐されるのでは?」と疑い、先手を打って挙兵することになった。馬超は、「父を捨てて韓遂殿を父とするので、韓遂殿も子を捨てて私を子と思ってほしい」と韓遂に協力を申し出た。韓遂は子供を曹操のもとへ人質として出していたために躊躇するが、馬超の熱意に応じて挙兵に参加する。

馬超と韓遂は10万の軍勢を率いて黄河南岸の潼水に布陣し、曹操と激突する。これが「潼関の戦い」である。戦いの最中、曹操が黄河を渡ろうとしている隙に、馬超は奇襲をかけ、曹操をあと一歩のところまで追いつめたが、惜しくも逃げられた。

その後、激しい攻防が続いたが、戦局は膠着し始め、両軍の間に会談が設けられた。馬超は会談の場に赴いて曹操を捕らえようとしたが、曹操の側には「虎痴」と呼ばれる豪傑の許許チョが控えており、隙を見つけられなかった。

『演義』においては、この許チョと一騎討ちを行い、互角の勝負を繰り広げるが、残念ながら正史では彼と武器を合わせた記録はない。

「正史」では若い頃、馬超は韓遂軍の閻行と一騎打ちをしたが、矛で突き刺され負傷、折れた矛で首筋を殴られて命を落としかけたことがあると伝わる。どうやって一命を取り留めたのか不明だが、戦場では苦い経験もあったようだ。

その後、曹操軍による離間の計にかかった馬超と韓遂は互いに疑い合い、仲違いを始める。その隙を突かれて曹操に攻撃され、大敗を喫した馬超は逃走。このため都に居た父の馬騰と一族200人あまりが皆殺しにされた。

馬超は張魯に兵を借り、失地回復を試みたが果たせず、益州に来ていた劉備を頼り、身を寄せることになった。その時、劉備は成都を包囲して劉璋を攻めている最中だったが「馬超が劉備に帰順した」という噂に恐れをなした劉璋は程なく降伏し、蜀は劉備の手中に落ちた。馬超の勇名は益州にまで知れ渡っていたようである。

以後、劉備に従って曹操軍と戦い、その功績で驃騎将軍・涼州刺史になるが、まだまだこれからという時、47歳の若さで世を去ってしまう。病死と思われるが、死因については一切記録がなく、不明である。

「臣の一門宗族二百人余りは、孟徳(曹操)にあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟の馬岱だけが残りました。途絶えようとしている宗家の祭祀は馬岱に継承させてください。深く陛下(劉備)にお託しいたし、もう申し上げることはございません」と、死ぬ間際にいい残している。

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『演義』では、馬騰が曹操に殺され、復讐戦を挑んだとあるが、正史では父を見捨てて挙兵したように記録されている。素直に考えれば、かなりの野心家だったのかもしれない。(哲舟)

※文章の著作権は哲舟に、一部借用・引用画像の著作権は作者および各メーカーに帰属します。無断転載を堅くお断りします/管理人・哲舟


馬超の一騎討ち勝敗表
西暦・場所
相手(所属)
結果
決まり手

193 長安付近

VS王方(李カク軍)

数合せずして馬から突き落とす

193 長安付近

VS李蒙(李カク軍)

生け捕り

211 潼関付近

VS于禁&張コウ(曹操軍)

同時に踊りかかってきたが、あざやかにかわし、追い払う

211 潼関付近

VS李通(曹操軍)

背後に回られたが、一撃で突き殺す

211 潼関付近

VS曹洪(曹操軍)

夏候淵が助太刀に入ってきたので逃走

211 潼関付近

VS許チョ(曹操軍)

戦うこと百余合、双方馬が疲れたので退く

211 潼関付近

VS許チョ(曹操軍)

再び戦うこと百余合、汗まみれとなった許チョが一旦陣中に退いて鎧兜を脱ぎ捨てて再度向かってくる。

211 潼関付近

VS許チョ(曹操軍)

激しく打ち合いなおも勝負決せず、心配した曹操が退き鐘を鳴らし、許チョ退く

211 渭水の陣中

VS馬玩(韓遂軍)

立ちふさがった所を斬り殺す

211 渭水仮橋

VS李湛(韓遂軍)

勢いに押されて李湛逃走

214 葭萌関

VS張飛(劉備軍)

百合余り戦うが決着つかず。

214 葭萌関

VS張飛(劉備軍)

馬を換えて再び5〜60合戦うが決着つかず日が暮れて、ドロー。

214 葭萌関

VS張飛(劉備軍)

夜戦になり、陣を駆け出してくる張飛を誘って矢を放つがかわされる。そこで劉備が仲裁に入り、引き分け。

★通算13戦 5勝0敗8引き分け


コーエー「三國志」シリーズに見る肖像変遷(左より1〜10の順に並んでいます)

(寸評)錦馬超の異名のためか1〜3までは「黄金色」の兜が特徴。毎回、虎に顔を食われている図を見るのも楽しみだ。1はなぜか眉が灰色だった。白眉…(笑)? 個人的ベストは6。斜め顔がかっこよく、一匹狼のような哀愁も感じさせる。一方ワーストは8。貫禄のカケラもなく、兜のデザインも良くない。

※画像の著作権は株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。

ギャラリー

作画/
祖茂

ドラマ三国演義


三国志ファンが斬る! 過去に皆さんから寄せられた書き込み、投稿です。

紫龍 殿

一国の世継ぎなのに劉備に飼われてしまうとは…。

コバヤシ 殿

兎にも角にも、も少し長生きして欲しかったデス〜。
そーすれば反三国志並みに活躍したかもしれないのに。

南部 殿

漢中がらみでは結構活躍しておる気も…

南部 殿

張飛とのコンビもなかなか…
でも、いつの間にか死んだ、と言う感は否めないなぁ。(弱気)

とらくろ 殿

長安付近で曹操と鍔迫り合いしてた頃は
輝いてましたねぇ…

とびかげ 殿

一族殆ど滅亡の心痛と蜀の多湿の気候で
病死したのでは…と思ってしまいます。

哲坊

五虎将の中で最も影うすい人物ですな。
キャラは濃いはずなのに…

ころんたん 殿

確かに五虎大将の中に入ってからは印象ないですねー。
現在で言う巨○軍の誰かさんのような気がして・・・

涼 殿

演義の馬超より正史の彼のほうが好きです。
どっちにしても影が薄いけれど。

劉 暁紘 殿

孤高の貴公子、そんな表現が合うと思います。伏波将軍 馬援を先祖に持ち、代々爵家に列され、その武力、気概は・・・でも、蜀に属してからは、目立ちませんね。おまけに早死にするなんて。

蜀漢再興熱望男殿

とにかくカッコイイ!仁義に篤い!
でもいつのまにか死んでた。いつ死んだかぐらい語れぇーっ

しんじょうこうじ殿

親を見捨てて叛乱を起こす辺りなかなか馬鹿でいいですねぇ
(正史では馬超が叛乱を起こしたときにはまだ馬騰は存命中)
きっと韓遂あたりに唆され、乱世に名乗りをあげてしまったのでしょう。
蜀に下ってからは外様ということもあり、戦場にも出られず、あの馬超が劉備に下ったという戦略的価値として飼われてしまった。悲しい武人。
こういう遣る瀬無さがいいんだよね〜馬超は

南蛮大王 殿

正史ではかなり悪者。なんせ長年,曹操にさからったから。
しかも民間人を殺しすぎなうえ、馬超が曹操にたてついたから親父が殺されている。演義,美化しすぎ。でも羅(漢中)さんもかばいきれなかったらしく、ちらほらと馬超の悪行が暴露されている。

黄蓋元暗し 殿

馬超が入蜀してから、劉備ならびに他の五虎将の方々は
気を使ったろーなー…。一族は殺され、裏切られの人生…
くら〜い過去を背負ってドヨヨ〜ンとしてる彼に
(前向きな)張飛さんが「ね〜大丈夫?」って尋ねてる風景が目に浮かぶ。

馬援 殿

強さの面では申し分なしでも猪武者ぶりが目立つ。劉備に仕えてからはそれなりに指示をあおぐこともあり、叛意を抱く者をとらえたり、頭をつかうようになったのでせめて五虎将で一番長生きしてくれればもっと蜀の中心的人物になれたのに。

雑巾賊 殿

カッコいいはカッコいいんだけど、なんだか暗くて重いものを背負っている上に、やっていること自体が基本的に意味なくて滑稽な気もする。なんだか、山中鹿之助とイメージがダブるんですよね。闘いつづけて散っていれば、それなりに評価も高くなったのかもしれないけど、なんとなく蜀に落ちついてしまって、めっきり印象薄くなっちまいました。あんまり、この人にはついていきたくないなあ。

陥陣営 殿

山中鹿之助、私もそう思います。初志が果たせていないですし…
「五虎将」の中では、何となく地味なイメージが拭えません。せめて、戦場で長槍を振るい抜いて朽ちて欲しかった人物です。

肯定袁術 殿

30過ぎても、李恢に青年馬超とか言われてた。(横山三国志)
一騎打ち一覧表に出ている李通さんは、曹操軍随一の猛将だったそうですが、なぜ馬超に一合にして斬られたのだろう? 彼は許チョよりも強かったらしいのに・・・(02.9.28)

哲坊

李通(幼名・万億)…彼もまた「演義」によって貶められた哀れな男の一人。そのまま病死ということにしてやったほうが良かったですな。(02.9.28)

耶麻爺 殿

結局蜀という、山やまヤマな所では彼の騎馬を使っての戦闘なんてできっこないでしょうからね。そういう意味でも蜀では彼は目立ち様が無かったと言う事なのでしょう。それでもまぁ、正史では五虎将の中では実績的にはNo.3でしょうね。ちなみに4番目が黄忠で5番目が趙雲となってしまいますね(苦笑) (02.10.13)

オジオン殿

正史では「狂将」と呼ぶに相応しい狂犬のような武将です。涼州では魏将達と親族を殺し殺されの血みどろの戦いを繰り広げています。蜀降伏後はその武勇はもとより「涼州攻略のための切り札」的存在だったように思います。実際、北伐に参加できていれば涼州方面の調略に活躍できたハズです。(03.1.6)

頴娃 殿

正史の彼は、天下御免の親不孝者です。曹操の動きを見て、自分が征伐されると疑心暗鬼に陥って事を決行した。まさに、自分のことしか考えてない悪人です。そのうえ、劉備に降ってからも傲慢だったようです。武力も閻行にボロ負けしたくらいですから、そこまで高くない気がします。演義は本当に美化しすぎですね(笑) (03.2.5)

劉伯安 殿

本当にあの李通に一騎打ちで勝ったならすごいですね(笑)
それとも同姓同名の李通がいたのでしょうか。(03.2.5)

オジオン 殿

閻行に負けたのは少年時代の話ですから、その後戦えば判らなかったかも。たとえば少年時代には松井選手やイチロー選手より野球が得意な少年もいたでしょうし。(03.3.3)

韓信大元帥 殿

蜀将となってからは活躍が少なく拠点を守るなどの地味な仕事をしていたような・・・横山三国志でも劉備が蜀を手に入れてからは殆ど登場しなかったような気がします。個人的に好きなので惜しい人物、しかも孔明が南蛮を平定して帰ってから数ヵ月後に死んでしまうし。ある意味馬岱の方が目立っていましたね、魏延の裏切りに加担せず忠臣として働いた彼の方が。 (03.4.5)

悠 殿

涼州で反乱を起こす前に有能な軍師を探しておくべきだった。智と涼州の武が合わされば至強なる曹操軍でも打ち破れたかも知れない。その後順々と足場を固めながら勢力を拡大すれば中原を制することもできたかもしれない。しかし馬超が野心を持ってないので中原を制するまでにはいたらなかったと思われる。(03.9.23)

マーツァオ伝説 殿

正史の馬超は皆さんの評価低いですね。じゃ、彼の戦歴を載せてみましょう。
206年: 郭援・高幹・匈奴討伐。膝に矢を受けるも奮戦して郭援の軍を撃破。(典略の記述(=魏側の記録)だが、これは馬超と魏の共同戦線の記録なので、信用に足る)
211年: 曹操に反乱。魏軍の渡河の最中に攻撃し、曹操は命を落としかける。二回戦は伏兵の前に敗北。その後、いわゆる単馬交語。(実は注の記述の中には、馬超はこの会談に参加していなかったという説もある)カクの策略の前に大敗。
蛮族を吸収し、また反乱。韋康を下し、援軍の夏侯淵を撃破。韋康の部下楊阜の計略により、漢中に逃走するが、楊阜は全身に五箇所の傷を負い、一族の男七人を失う。要するに辛勝。
212年: たびたび北征するも、ほとんど成果無し。
213年: 劉備のもとへ。成都の人間びびりまくり。劉備は彼の来降を聞き、「益州を手に入れた」と言ったとか言わないとか。(典略)
218年: 張飛とともに南鄭の曹洪を攻めるも、先鋒の呉蘭・雷銅らが敗れたので撤退。

当時の人の評価は高かったようです。楊阜・諸葛亮などは彼を高く評価しています。敵の評価では、「勇猛だが、恩愛無し」(ば〜い 王商)というのが一般の評価ですな。劉備陣営に加わってからの彼のスピード出世は、家柄ということもありましょうが、何よりも、後に北に軍勢を動かそうと考えている蜀軍にとって、馬超の軍事的才能、涼・擁(字が違うぜ!)での戦闘経験・土地堪、異民族の心を上手く掴んでいるという三点で、馬超は必要だという戦略的な考慮もあったのでしょう。(03.11.30)

倭奴国王 殿

蜀で馬超が残した最大の功績は「劉璋を戦意喪失させた」ことでしょう。中原では名の通ってる張飛でも、蜀の田舎までは名声が届いていなかったようで・・・馬超が劉備軍に参加した、と聞いた劉璋は、その名前を聞いただけで震え上がり「命ばかりはお助けを〜」状態になったとさ(笑)。まあ、一見地味な功績ですが、おかげで何千、何万という人命を無駄に消費せずに済んだわけですから・・・。ま、その後の馬超は、蜀にとっては「飾り物」ですわな。 (03.11.30)

もさ 殿

初めて意見させていただきます。錦馬超大好きです。どんなに正史に辱められようが、それが事実であろうが、その武だけで曹操を何度も追い詰め(韓遂の知略がたいしたものであったとは思えない)、蜀に降った後は地味ながら、彼にしかできない重要な役割をただ忠実に続けた彼の歴史的価値にはなにも問題ないでしょう。彼は蜀にとって「飾り物」ではなく、大きな「壁」であったと信じたいです。(04.11.1)

潮風 殿

私も馬超は大好きです。劉備や孔明はその能力を高く評価してたわけだし、もうちょっと長生きして欲しかった。ちなみに彼は正史で左将軍ですから実は蜀でbQの武将です。中国では左の方が上なんです。張飛(右将軍)がそれでなんであんな野郎の方が・・・というエピソードも残ってるらしいです。蛇足ですが個人的に名前も迫力があってかっこいいと思います。(05.1.12)

頼道 将和 殿

初めて書き込み致します。何故か、彭漾(マイナスさんずい)の悪事を上奏した話が出ていないですね。立場上微妙だったのは本文にもありますが、この話を聞いて、見通しの甘いいい加減な奴=チクリ魔=馬超 という全く印象の悪い人物のイメージになってしまいました。(05.1.12)

アニマル黄忠 殿

頼道将和 殿、それをチクらなかったら逆に謀反の芽をつみとれないと思います。反逆幇助になってしまいますよ。身辺に常に気を使ってたという点は魏の賈クと似ていますね。知力は段チですが...。そういえばこの二人は同じ州の出身ですね。(05.3.18)

電化製品 殿

「蒼天航路」の馬超ではじめて錦馬の錦馬たるを知った。曹操に叛乱を起こすなどと、いかにも田舎の若者らしい擦れてない感じが素敵。反曹の大義に成り立つ蜀が馬超を得たことは、阪神が川上憲伸を獲得するほど有り得ない幸運だったのではなかろうか。 (05.3.18)

カナデ 殿

厳密には馬超は蜀将ではないと思います。たしか後漢朝から与えられた将軍位では劉備よりも高かったはずで、扱いとしては客将に近いです。実際、漢中王を名乗って以降漢中の守りは魏延で、馬超は白水関(?)でサポートです。馬超は劉備ごときに遣われたくなかったでしょうし劉備も馬超を信用していなかったのでしょう。

彼が活躍した西域は中原と同じだけの広さがありシルクロードの交易や民族の支配を一手に引き受けていたこともあり、中原には興味がなかったのではないでしょうか。そう考えると、劉備に下ってからの燃えつきっぷりは頷ける気がします。やる気にならなかったんでしょうね。元々、中央に対して反乱を起こしたのも年貢を収めさせようとしてきたからで、この地方ではいつものことですね。覇を唱える気はなかったと思います。曹操が相手だったのは運が悪かったのでしょう。(05.3.20)

アニマル黄忠 殿

実際、野戦ではほとんど負けてません。野戦と言っても、平野などの戦闘に限りますが。張魯のもとにいたとき、張コウと戦う前に逃走してしまったことがありますが、慣れない土地で戦ったためで、平野で直接対決したら勝敗はわからなかったでしょう。平野での戦いでは夏侯淵には勝利しているんだし。それと、潼関の戦役の前に、劉雄鳴という武将と交戦して撃破しています。馬超の招集に従わなかった豪族の一人だったのでしょうが、この事績は忘れられがちです。 (05.4.23)

ま〜ちゃお 殿

如何せん彼の場合三国時代の定義における中華の外での活躍が主となるため、評価の難しい人物だと思います。儒教的道義で測りきれない部分も多いために、涼州連合の盟主として反旗を翻したこと、そしてそのために間接的に家族を見殺しにしてしまったことも現代の感覚では一概に判断できないのではないでしょうか。

それでも神威将軍錦馬超と異民族に恐れられた彼の姿と涼州の荒涼としたイメージ、そして大胆不敵な騎馬用兵など、個人的には非常に好きな人物です。血族を必死で守ろうとしつつ結果的にそれが裏目に出てしまっている悲しさを愛してしまうのは僕が日本人だからというだけでは無いと思うのですが。(05.5.22)

minarai 殿

五虎将軍の中で最も華やかなイメージがあります。演義呼んでいて劉備陣営に加わったときは嬉しかったものですが、ひっそりといつの間にか死んでしまっていて残念です…。彼がもう少し長く生きていれば諸葛亮の北伐がどのように鳴ったかも興味深いです。西涼出身ということで、騎馬での戦を得意にしたのかもしれませんね。でも、北伐ルートは道が険しくて騎馬での戦には向かないかも… (06.8.16)

牢拘中 殿

是非北伐での馬超vs張コウを見てみたい。曹操が恐れた武将と劉備、諸葛亮が恐れた武将の戦い。兵力差が無いのなら馬超が勝つだろうな……。ただ、個人的武勇だけなら、全盛期の張飛と比べると劣るかもしれません。(06.10.23)

アミーゴ 殿

軍事的才能は素晴らしい物がありますが、人間性は最低に近いんじゃないでしょうか。最後劉備についたおかげで後世の評判はすこぶる良くなっていますが。馬超のエピソードの中では楊阜達による復讐劇が一番印象深いです。軍事的天才の馬超を執念で追い詰めついには勝利する楊阜達。凡人達の意地が見た気がします。07.1.22

晴天回路 殿

スーパーマン軍団のような印象を受ける劉備陣営の中では馬超の存在は戦隊モノの一員(色でいうと緑とか茶)程度に捉えられがちかもしれませんが、これほどのビックネーム(君主経験あり)が劉備陣営に加わるって相当凄いことだと思います。彼の蜀軍での活躍具合はともかく、魏軍ファンの私ですら蜀軍スゲェと素直に感じますね。ちなみに私は『蒼天』馬超大好きです。27〜28巻が一番好きで、馬軍のセリフが耳から離れません。07.3.7

今典厩

正史では弁解の余地がないほどの狂将とされていますが、「あえて」悪く書かれている気もします。挙兵した時に馬騰が生きていたというのも捏造かもしれませんし、「馬騰が殺された」という虚報にはめられたのかもしれません。曹操にとって馬氏はいずれ消さねばならなかった以上、そのような策略も行われていたはず・・・これらの事情を差し引いて考えるべきだと思います。歴史が勝者によって創られる以上・・・。08.2.13

D.D.junk

曹操をも心胆寒からしめる、きらびやかなまでの武。個人的には呂布や孫策とイメージがかぶります。カリスマさえ感じさせるほどの戦の才能を持ちながら、武に溺れて不器用な立ち回りをし、結果としてつまらない結末(反論もあるかと思われますが、彼の実力と異民族にも顔が利く馬氏のネームバリューを考えるに、小国に過ぎない蜀の一将軍と言う最終ポストはあまりに小さすぎます)を迎えてしまうあたりもそっくりです。三国志に武人多かれど、華のある武人と言えばこの三名でしょう。08.2.13

 

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