作画/雲才

字(あざな)/妙才(みょうさい)

生没年/生年不詳〜建安24年(219年)1月

出身・所属/豫州沛国ショウ県

 

武勇

8

 

 

戦術

8 

 

 

知略

4

 

 

 

 

 

 

カリスマ

7

 

 

 

人望

6

 

 

 

 

外交

5

 

 

 

 

 

内政

5

 

コーエー「三國志」シリーズに見る夏侯淵の能力値変遷
陸戦指揮、水戦指揮はIIIのみ、
運勢はI のみの設定。赤字はシリーズ中の最高値

 

知力
武力
魅力
政治力
統率力
陸戦
指揮
水戦
指揮
運勢
I
60
92
74
 
 
 
 
37
II
60
90
71
 
 
 
 
 
III
58
90
74
55
 
86
74
 
IV
57
92
78
56
90
 
 
 
V
59
91
82
43
 
 
 
 
VI
58
90
82
56
79
 
 
 
VII
53
88
64
49

 

 

 

 

VIII
51
92
80
56

 

 

 

 

IX
51
92

 

64
91

 

 

 

X
56
91
78
61
92

 

 

 

夏侯淵 かこうえん

曹操に旗揚げから付き従う最古参の将のひとり、夏侯淵は曹操や夏侯惇と同じ、豫州・沛国?県(はいこく しょうけん)の出身。

夏侯惇との関係は、『正史』では族弟(いとこ)、『三国志演義』では弟と書かれている。曹操と夏侯惇もいとこ同士だから、義兄弟なんてものではない。正真正銘の身内であって、義兄弟以上の強い結びつきがあったことになる。(しかも、彼の妻は曹操の妻の妹で、れっきとした?義兄弟でもあった)

そうした理由から、曹操の旗揚げにはいち早く参陣したらしい。以来、曹操軍の主力の一人として活躍し、袁紹との「官渡の戦い」、馬超との「潼関の戦い」などに従軍。急襲・速攻を得意とし、機動力を生かした用兵ぶりは「三日で五百里、六日で千里」とうたわれた。

211年以降は、征西将軍として都の西へ赴き、馬超や韓遂との戦いにおける軍事総司令官となる。曹操は羌族と交渉するときは、いつも夏侯淵の名を使って脅したといい、異民族からも恐れられていた模様。

『真・三國無双』でもおなじみだが、その原作でもある『演義』では弓の名手として描かれ、銅雀台落成の余興で、的に刺さった、4本の矢のどまんなかを射抜くという芸当を見せる。

だが、『正史』には弓を得意とする描写はない。実は、ライバル?の黄忠も、正史には「弓が得意」とは一言も書かれてない。←ここ重要(笑)

その後、漢中の守備を任され、劉備軍との戦闘に入るが、219年「定軍山の戦い」で兵が手薄となったところを黄忠に奇襲され、戦死した。奇襲を得意としながら、奇襲で命を落としたのは皮肉な運命だ。黄忠に斬られたとあるが、黄忠本人に斬られたのか、その軍勢に斬られたのかは曖昧な表記につき、よく分からない。

ただ、最期が呆気ないため、いささか情けないエピソードがよく取り上げられる。曹操からは軽挙妄動を慎むよう忠告されていたり、配下から「白地将軍」と呼ばれていた(考え無しの者を表わす)などという不名誉な記録も残っているからだ。

じっさい、最期はみずから400人ほどを率いて逆茂木の修理に当たっていたところを奇襲されて死んだとも記録され、短慮で知略には欠けたのかもしれない。しかし、その一方で兵糧の管理を任されたり、羌族に恐れられたりなど、政略や将器を感じさせる記録も少なくない。『正史』での活躍場面は、むしろ兄貴分の夏侯惇よりも多く書かれているくらいだ。 

見逃せないのが、義侠心の厚さを感じさせるエピソード。若い頃、曹操がなにか悪さをして、夏侯淵はその身代わりとなって罪をかぶった。その後、投獄されたと思われるが、曹操がうまく彼を救出し、助けたという。

また当時、故郷の豫州は大飢饉に陥っていたが、自分の幼い子供を捨て、死んだ弟の娘を救ったという逸話も残っている。現代的には微妙ながら、儒教的には美談なのかもしれない。そう考えると、短気だが憎めない一面、たとえば『演義』における、張飛のような性格だったのかもしれない。それだから曹操も心配して、「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要だぞ」とと戒めていたのではないだろうか。

ちなみに、夏侯淵の子どもたちも、なかなか面白い。次男の夏侯覇は、司馬懿のクーデターの影響で蜀に亡命したことで有名。五男の夏侯栄は、百人の来客から名刺を渡され、その顔と名前を瞬時に覚える天才だったが、定軍山に従軍していたため、父が戦死したと聞くや、みずからも剣を振るって闘い、後を追うように死んだ。なんと13歳の若さ。血の気の多さも遺伝か。

ちなみに、夏侯淵の姪は、薪とりに出かけていたところ、張飛に見つかり、妻にされてしまった。当時、おなごは戦利品なのです(笑)。姪は張飛の娘を生み、その娘は劉禅の妻となる。張飛の妻は夏侯淵の戦死を知ると、その埋葬を張飛に願ったそうだ。

そういう健気なエピソードを聞くと、1800年も前の人間とは思えぬ温かさを感じる。夏侯淵の一族にはそうした血の通ったエピソードが多いような気がして、やはりどこか憎めないというか、嫌いになれない人なのである。そういえば人形劇三国志では惇よりも目立っていたし、ずいぶんイケメン扱いだった。

知略はやや不足だが、夏侯淵はまぎれもない曹操軍の主力武将のひとり。憎めないタイプの猛将であり、曹操からも信頼されたのだろう。(哲舟)

※文章の著作権は哲舟に、一部借用・引用画像の著作権は作者および各メーカーに帰属します。無断転載を堅くお断りします/管理人・哲舟



コーエー「三國志」シリーズに見る肖像変遷(左より1〜10の順に並んでいます)

(寸評)ご存じ『三國無双』シリーズの夏侯淵は、ちょっと太めなのが特徴だが、あれは上記の1〜4ぐらいのイメージを採用しているのだと勝手に推測する。見てわかるように、4までは顔がふっくらしていて、ダルマのような愛嬌があった。それが段々と、トゲトゲしくなってきている。5〜6あたりは本当に格好良くて、兄貴分の夏侯惇とのコンビで攻め込んできた時など、心底「怖さ」を感じたものである。

※画像の著作権は株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。

ギャラリー

作画/
祖茂

 

夏侯淵の一騎討ち勝敗表(主に三国演義による)

西暦・場所

相手(所属)

結果

決まり手

215 漢中

VS昌奇(張魯軍)

3合も渡り合わぬうちに斬り殺す

215 漢中

VS楊任(張魯軍)

出合い頭に斬って落す

219 定軍山

VS黄忠(劉備軍)

黄忠の奇襲になす術なく真っ二つに斬られた(不意打ちであり、応戦する間もなかったといえる)

★通算3戦 2勝


三国志ファンが斬る!夏侯淵評 過去に皆さんから寄せられた書き込み、投稿です。

鈴村 殿

個人的なイメージとしては曹軍の斬り込み隊長というかんじで好きです。
息子たちの優秀さ(正史・演義含めて)では曹操・孫堅・司馬懿たちと張れるのでは?

新荘剛史 殿

奇襲、急襲などスピードをいかした戦法を得意とした勇将。
群賊の討伐に力を発揮、官渡では補給を担当したらしい。

香香 殿

曹操と夏侯惇と夏侯淵は、桃園三兄弟に等しい堅い絆で
結ばれていたと確信しています。個人的に両夏侯は夫にしたいタイプ。曹操への忠義振りがカワイイから。

香香 殿

彼の子供では、生き延びたコドモより、
定軍山で蜀軍に惨殺された夏侯栄あたりが好き。

コバヤシ 殿

銅雀台の落成式でのスタンドプレーはオイシイな〜。

鈴村 殿

馬超討伐戦で曹操の命令を待たずに出陣するあたり、
「反乱は都で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!!」
ってかんじでいいですね。

香香 殿

じぃさんも大好きなので、
定軍山の一騎討ちを読むのは魂が引き裂かれる想いです〜(T_T)

孫夫人 殿

曹操に時には「臆病になれ」と言われる程に勇猛でしたが、
それがアダにもなったやも…

とらくろ 殿

夏候淵妙才っていう名前の響きがいいですね。

六波羅文乃 殿

この人もかなり曹操に命かけてますねぇ(^^)

ひろひろ殿

三國志Vの淵の顔はかっこよかった。

陥陣営 殿

弓の夏侯淵は、弓上手のお爺さんに仕留められてしまいました。
って、昔話みたいですね(笑)。

沮授@tRTK 殿

張魯の治める漢中攻略戦での大活躍よりも、夏侯淵の治める漢中攻防戦での負けっぷりの方が印象強いです…。ところで、彼の子孫は演義の終盤においても登場し活躍しておりますナ。(02.9.1)

オジオン殿

演義でのとってつけたような描写と黄忠に斬られた最期のためか不当に貶められていますが、私見では曹魏で最高の名将の一人。圧倒的なまでの行軍の速さで「典軍校尉夏侯淵、三日で五百里六日で千里」と称えられた活発な騎兵戦術を得意とする武将です。特に魏の西部戦線で活躍し、馬超・羌族などを全く寄せ付けない強さを見せつけます。まさに「常勝将軍」と呼ぶに相応しい華麗な軍歴です。最期となった定軍山の戦いは陣地戦だった可能性が高いので、夏侯淵としては本領を発揮できなかったのかも。戦死したのも自分の陣営の兵を割いて張コウを救援しようとしたため。味方思いの良い奴だったのです。(03.1.6)

史進 殿

弓が得意だったけど本人は矢ですね。獲物に刺さるまでビューンって。三国無双の丸いのはいただけないなぁ (03.4.5)

頴娃 殿

オジオンさんに言いたいこと殆ど言われてしまった(笑)
演義での扱いは酷いですが、正史では曹操に、魏の5将軍をも上回る貢献をしてるんですね。 特に領土拡大面などで。 「典軍校尉夏侯淵、三日で五百里六日で千里」と語られるほど奇襲を得意とし、相手の不意をつく戦いを得意とした彼の戦いぶりは素晴らしいの一言。馬超に1度敗れているものの、知らない土地での戦いは難しいものがあります、それであれ程の功績をあげたんだから、彼の軍事的才能は並々ならぬものがあります。最期は殆ど記述が無い黄忠にあっさり殺されてるところから、演義での扱いも悪いんでしょうが、定軍山も彼の無謀さ&無鉄砲さが仇となった結果ですね。決して、戦争才能の差で負けたわけではないと思います。(03.8.18)

まりオ 殿

機動力なら三国内屈指…というのが自己評価です。黄忠の引き立て役というイメージが濃いですが、黄忠と彼でははっきりいって紙袋とブランド物バッグぐらい格が違います。別に黄忠を非難しているわけではないのです。当時の夏侯淵にはそのくらいの威名があったし、その彼を運良く討ち取ったからこそ破格の出世遂げられたのです。

軍事面では曹操の右腕だった彼はとにかく強かった。重ねて書きますが、彼の真髄は機動力だったと思います。「典軍校尉夏侯淵、三日で五百里六日で千里」といわれるほど速かった。また曹軍内将多しといえどこの人ほど勢力拡大に貢献したは人はいないと思います。主に司令官として大陸狭しと駆け回り叛乱を制圧し、西方の広大な領土を主君に献上しています。夏侯淵の神速的用法は曹操の覇業に大いな速度を与えたいっても過言ではありません。そんな彼の戦歴です。

・官渡の戦いの後、エン州・徐州・豫州の軍糧を取り仕切り、補給を担当。当時食料が不足しており、難しい任務であったが、夏侯淵が補給を滞らせなかったので、軍は勢いを維持。
・201年、東海にて抵抗を続ける昌希を制圧
・20年、再び叛乱を起こした昌希を制圧。その首を斬る。
・211年、徐州・揚州・并州・雍州、各地の叛乱を制圧。なお雍州では韓遂・楊秋を降伏させ梁興を斬る
・214年、再び叛乱を起こした韓遂を撃退。馬超を敗退させる。まさに連戦連勝。

特に211年は東西南北と駆け回っています。東の徐州・南の揚州・北の并州・西の雍州。一年でこれだけの距離を移動することも大変だったろうし、知らない土地で勝利をおさめることも相当難しい。それ以前によく過労死しなかったなぁ・・・と思うのは自分だけではないはず。

しかし、彼にも最後の時がくる。219年の定軍山の戦いです。彼は決して戦争手腕で負けたわけじゃないんです。蜀軍に焼かれた逆茂木の補修に顔を出したところを黄忠に見つかったからなんです。確かに軽率だが、運が悪すぎる。夏侯淵は完璧な武将ではなかった。思慮が浅いし、奇策が得意なわけでもない。しかし、ひたすら敵を倒し大陸を駆けた彼が自分はたまらなく好きなのである。(04.10.3)

ゆぅ 殿

この人は名将ですよね。最期の定軍山で黄忠に敗れましたが、その前の捕虜交換の儀で黄忠に切り掛かったときは互角に戦ったし、必ずしも黄忠より弱いとは限らないハズです!(05.4.23)

峰徳森山 殿

正史に於ける夏侯淵の軍功は凄まじい物があるが、馬超以外はマイナーな人物にしか勝利していませんね。彼が短期間で魏の領土拡大に貢献した事は認めるが、張コウ、張遼、徐晃、ゾウハ(元呂布配下、後に魏の執金吾・特進にまで昇る)でも間違いなくこなせたと思います。

でも夏侯淵って名前は凄く有名だけど、どんな人物か解ってる人の数は少ないと思うんですよ(音楽の世界で例えるならデビッド・ボウイみたいに名前は物凄く有名だが彼の曲は聞いたことが無いみたいな)。そういう意味でも色んなファンタジーを抱かせてくれる彼は凄いと思います。だって私が小学3年の時に陳瞬臣の画本・三国志(中央公論社)を読んだ時、漢中攻略戦で戦死したときなんか「うわっ、玄徳達は凄い大物倒したんだ!」と思いましたもの。(しかも、その本では馬超・韓遂・楊秋・昌キ撃退のエピソードは掲載されていなかった) (06.5.15)

アミーゴ 殿

張遼と並んで魏建国の最優秀武将だと思います。最後の最後でミソを付けてしまいましたが、いかほども彼の戦績を貶めるものでは無いかと。(06.8.16)

今典厩 殿

黄忠自身に討ち取られたのか、黄忠の手兵に討ち取られたのか正史の解釈が分かれますね。本人に討ち取とられたのなら文句なしですが、手兵に討ち取られたのなら夏侯淵も浮かばれないですね。何しろ無名の爺(ほんとかどうかは謎)に討ち取られたことによって過去の武勲全てが否定されてしまうはめになりましたから・・・。統率は高くていいですが、武力はもっと低くする必要があると思います。演義重視を謳う以上、黄忠に討ち取られたというのはもっと強調される必要がありますね。いずれにしても貶められる本人には気の毒ですが。(06.10.23)

哲坊

ゲームの能力についてでしょうか? しかし、過去の武勲すべてが否定されるということはないと思います。たとえば関羽に一撃で討ち取られた華雄や顔良にしても、決して弱いとは言われませんよね。夏侯淵が黄忠に斬られたにしても、たとえ無名の兵に斬られたとしても、乱戦の中だったかもしれないし、捕らわれて斬られたのかもしれないし、色々な状況が想定できると思います。いかに強い人物でも、死ぬときは意外なほど呆気なく描写されているものですからね。(06.10.23)

晴天回路 殿

黄忠(老将)に討ち取られてしまったことで大分評価を下げられてしまっている感がありますが、夏侯淵は定軍山の戦いの時は何歳だったんでしょうか?成年が不詳となっていますからはっきりとはわかりませんが、彼自身の衰え(個人的武勇の面での)は考慮に入れてもいいかな…と。でもそうすると老いてなお盛んな黄忠の凄さもわかりますね。ゲームの能力値にも、「老い」というものを加味してもいいのではないか、と思います。07.3.7

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