作画/雲才

字(あざな)/奉孝(ほうこう)

生没年/170年〜207年(38才)

家族/子・郭奕(えき)

 

武 勇

3

 

 

 

 

 

 

 

戦 術

 

7

 

 

 

知 略

10

カリスマ

7

 

 

 

人 望

6

 

 

 

 

外 交

7

 

 

 

内 政

8

 

 

 

コーエー「三國志」シリーズに見る郭嘉の能力値変遷
陸戦指揮、水戦指揮はIIIのみ、
運勢はI のみの設定。赤字はシリーズ中の最高値

 

知力
武力
魅力
政治力
統率力
陸戦
指揮
水戦
指揮
運勢
I
97
19
80
 
 
 
 
17
II
97
39
86
 
 
 
 
 
III
80
36
82
97
 
32
6
 
IV
99
27
89
92
42
 
 
 
V
98
32
92
91
 
 
 
 
VI
99
23
80
92
47
 
 
 
VII
96
12
83
92

 

 

 

 

VIII
97
24
82
90

 

 

 

 

IX
98
10
 
81
58

 

 

 

X
97
12
80
82
52

 

 

 

Iの運勢の低さに まず同情(笑)。IIIでは何故か知力が80に落ち、政治力が全武将中トップの97になっていたのにはアレ?と思った。知力では司馬懿や周瑜に一歩遅れをとっていたが、IVでようやく追い抜いた。全作品通じて戦場には連れて行きにくい能力になっている。

郭嘉 (かくか)

曹操が献帝を迎えたころ、彼には戯志才(ぎしさい)という謀略の相談相手がいた。その戯志才は若くして死んだため、曹操は荀ケに対し、「戯志才の代わりとなる人物がいないか」と相談したところ、荀ケは郭嘉を推挙した。郭嘉は、はじめは袁紹のもとを訪れたが、その人物に失望して仕官せずに去り、曹操に仕えることになった点で荀ケと似ている。

ただ、人物の性質としては異なっていたようだ。荀ケは内政・外交など政治運用に長ける軍師だったが、郭嘉は戦場に同行して謀を巡らせるタイプの軍師だった。その点は荀ケではなく甥の荀攸とよく似ている。曹操が創設し、荀攸をリーダーとした「軍師祭酒」という参謀本部の一員として、郭嘉は数々の献策を行った。

198年、呂布討伐に随行したが、曹操は籠城する呂布を攻めあぐね、退却を決意しかけた。その時、郭嘉は荀攸とともに城攻め続行を主張、水攻めを進言して呂布軍を破った。

曹操が袁紹と戦うにあたり、郭嘉はその勝利を確信し、「公(曹操)には十の勝因があり、袁公(袁紹)には十の敗因があります。道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武です」と告げ、勇気づけている。

はたして袁紹が官渡の戦いで敗れ病死した後、郭嘉は袁紹の息子たちが仲違いを始めることまで予想し、的中させる。その後、息子らは公孫度の元に逃げたが、郭嘉は公孫康が彼らの首を差し出すと読んだ。郭嘉の読み通り、公孫康は袁煕と袁尚の首を曹操に差し出して降伏してきた。

烏桓族討伐に従軍し、そこでは大軍を連れて行くのではなく軽騎兵による速攻を進言。曹操はそれに従って烏桓族を討伐、河北統一を実現した。しかし、柳城から帰還の後、郭嘉は病を得て死去した。曹操は嘆き悲しみ、後年「赤壁の戦い」に敗れた時も「奉孝が生きていれば、敗れることはなかっただろうに」とその死を惜しんでいる。(哲舟)

※文章の著作権は哲舟に、一部借用・引用画像の著作権は作者および各メーカーに帰属します。無断転載を堅くお断りします/管理人・哲舟



コーエー「三國志」シリーズに見る肖像変遷(左より1〜10の順に並んでいます)

(寸評)初期の頃はその衣装から「赤い軍師」のイメージがあった。赤が呉のカラーに定着したあたりの5でそれが消えたのがやや残念だが、個人的には5の顔がベストだと思う。1〜3はちょっと老け過ぎの観もあったし。7以降は無理に線の細さを出そうとしているせいか、顔がアニメ調になってしまった。9〜10は竹中半兵衛あたりとかぶる。そのまま「信長の野望」に登場させても良さそうだ(笑)。

※画像の著作権は株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。

ギャラリー

作画/
祖茂

 


三国志ファンが斬る! 過去に皆さんから寄せられた書き込み、投稿です。

新荘剛史 殿

堅苦しくなく、頭も良い。もてる筈だわ。冷静な分析力、これが彼の最大の武器でしょうね。

紫龍 殿

赤壁での敗戦の折、曹操が「郭嘉がいれば…」
といったのが印象的。(他の知将の立場は?)

香香 殿

曹操とは、年齢・身分を越えた戦友だったのでしょう。
でも、同僚や友達としては遠慮したいなぁ〜(^^;

功明 殿

曹操の幕僚の中では、荀イクの次に好きです。
紫龍さんの意見に同感です。

哲坊

「兵を出さずとも、遼東の太守が袁尚の首を届けましょう」
進言して、その通りになってしまったことに感心…

哲坊

以前、掲示板にて軍師のベスト5を挙げてもらった所、ほとんどの人が選出されておりました。郭嘉死後、曹操がつぶやいたといわれる、「哀しいかな奉考、痛ましいかな奉考、惜しいかな奉考」には、本当に痛恨の想いが込められておりますな。

安全 殿

品行がおさまらなかった挙句に性病で死んだという話を聞いたことがあるのですが、本当でしょうか?

トリホー 殿

天才軍師、短命の名参謀等とよう言われますなぁ、確かに一理あると思っているが、それは郭嘉が曹操にとって最も必要な人材で絶対能力の事ではございません。郭嘉はおだての天才でした、曹操の持てる力を100%から200%に引き上げることが出来た人材であるから。結構周囲にイエスマンを置きたい曹操にとってこれほど愛せる人材はいなかったのでしょう?
知将として数多くの献策をしている郭嘉だが、政治家、軍師としてのキレは筆頭格の荀イク、程cに次ぐ男だったのでは?やはりまだまだ若い、しかし若さゆえに曹操を尊敬しおだてることが出来たのだ、曹操軍きっての参謀郭嘉、「参謀は考え計算せよが鉄則だが何よりトップの力を最大限引き出すことが参謀の妙技ではあるまいか?」彼はそのことを良く表している気がするのだ。

スダダス 殿

司馬懿が出て来るまでは,彼が曹操軍の軍師でしたね。荀イクやテイイクに比べると,彼のほうが重宝されていたようですし。彼のおかげで,曹操は中国全土で最も力を持つことができたのです。 (02.9.24)

耶麻爺 殿

>安全殿
確かに正史の方ではどちらかと言うとやくざな暮らしをしていたそうでよく陳群から曹操に行状が悪すぎる、と訴えられていたそうです。人格的にはかなり問題ありそうですね。そういう意味でトリホー殿、彼は決してイエスマンではないと考えられますよ。
むしろ曹操は頭がずば抜けて切れながら任侠的の彼と言う複雑な人物像の郭嘉を愛したのだと思います。もしイエスマンのみを置きたがる人間であれば関羽なんかをあれほど厚遇することは無いですからね。
ちなみに知力100が一番合うのは彼だと思うのですが・・・(時点・賈ク)
政治100は諸葛亮で良いと思うのですけどね。(02.9.28)

閻行 殿

郭嘉は物事の真相をつかむことができ、また当時の価値観の枠に収まることも無く曹操の後継者として うってつけだったかもしれません。またその信頼関係は君臣の鑑といえます。 (02.9.28)

郭奉考 殿

HNから分かると思いますが私の一番好きな人物です。多くの優れた献策を考えれば、ただ曹操に気に入られていただけの人物では無いことは明らかでしょう。軍略に関しては荀ケより上だと思います。赤壁の戦いも「郭嘉さえいれば」曹操が勝っていたと思いたい所、もしくは出兵そのものを止めていたかもしれませんが・・・。 (02.10.13)

トリホー 殿

品行悪いそれ自体がイコール無頼になるわけではありません。時代に関係なく間諜力に長けた人間は嫌われ者が多いものです。曹操は忠臣といえども簡単に殺す、英雄ぶりをかねそなえているのです、客将を扱う時の態度と自軍の側近を扱う時で同じ態度を示すでしょうか。時の独裁者はその殆どがおだてにとんだ郭嘉のごとき人物を好みました、たとえ能力がなくても(彼は優秀であったが)。私は君主のイエスマンになれる男を愚かとは思いません。郭嘉なくば曹操の野望も達成されなかったでしょう。ひょっとしたら水滸伝の高キュウに似ていたかもしれませんね。あくまで仮説ですけど。 (02.10.13)

こう 殿

個人的には大好きな武将。奉考がいたら赤壁の戦いなんか起きなかった思うねん。劉備が孔明を得る前に劉備と孫権の間に、外交的な楔をうっておいたと思うで。むしろ荊州討伐後は孫権をうまく懐柔(呉王かなんかに)しておいて、電撃的に益州攻めてたん違うかなぁ。そしたら劉備は袋のねずみやしね。 ううっ(泣)せめて俺がGAMEの中で長生きさせたる。おまえが俺の右腕や。(03.4.5)

今仲達 殿

軍師というよりは参謀、策士というのがお似合いです。とくに洞察力に優れていて、その時その時の状況を正確に完璧なまでに把握し、その先どうなるかというのを分析する事に長けていました。実際に孫策の死を言い当てたり、袁紹の息子たちの動向を言い当てるのは見事としか言いようがありません。惜しむらくはやはり若くして亡くなったことでしょう。性格は品行が悪く陳羣が曹操によく訴えていたといいますが、それは郭嘉が破天荒なだけだったのかもしれません。それを見ていた政治畑の陳羣は他の人の示しがつかないと思い訴えていたのでしょうね。でも今では女たらしのイメージが・・・(苦笑) (03.4.25)

哲坊

曹操だって女好きは相当のものだったらしいし、その点でもウマが合ったのでしょうな(笑)。(03.4.25)

うひーん 殿

前任の参謀たる戯志才という存在にも興味が出てきます。少なくとも郭嘉と比肩する才を持っていた訳ですよね?戯志才についてはエピソードも少ないもんで、誰か彼についても詳しく教えて下さい。(03.5.31)

哲坊

戯志才と郭嘉。曹操にとっての無二の参謀で、素行が悪く早死にという点が実に似ておりますな。あ、ここは郭嘉のページだった(笑)。(03.5.31)

我是中國人 殿

SOTENKORO NO 郭嘉 WA SAIKO!! (03.9.23)

哲坊

↑台湾から届いたメールでしたが、本物の中国人の方なら嬉しい気がするので、とりあえず載せておきます(笑)。(03.9.23)

白夜 殿

始めまして白夜と申します。若い頃は才識ある人物のみと関わりを持ち,俗世とは関わらなかったとか。曹操に仕えてからは,天下の情勢を冷静に分析し,孫策の死や袁兄弟の争いなどの予言?を見事的中させ,覇業に大きく貢献。袁紹と比較した十勝十敗による激励なども。でも品行は悪い(笑)そんな郭嘉が大好きです。でもやっぱり早死にしすぎ…。38歳って…。本当に悔やまれます…。

「軍祭酒の郭嘉は,征伐に従ってから11年を経過し,重大な論議のあるたびに敵を前にして変化に対処しました。臣の策略がまだ決まらぬうちに,郭嘉はやすやすと処置を考えておりました。天下平定においては,彼の計略の功績を高く評価します。不幸短命で,仕事を完成しませんでした。郭嘉の勲功を思い起こしますと,実際忘れることができません。八百戸を加増し、前の分とあわせて一千戸とすべきだと存じます」

蒼天郭嘉の最期にある上奏文の和訳を載せてみました。 (05.1.12)

創影 殿

郭嘉は早死にして得した人物ではないか。彼も荀イク、荀ユウと同じ清流派だったはず。長生きしていれば曹操との間に確執が生まれていたかも知れない。と思っています。(05.4.23)

公孫樹 殿

郭嘉の場合荀イクと違って漢王朝内で高位についていないので、ずっと曹操の顧問に徹するつもりだったのではないでしょうか。この人は不良隠者ですから、むしろ宮仕えは嫌いだったかも…(05.5.22)

峰ヶ谷津 乃依 殿

私見ですが、郭嘉は先読みの天才というよりは情報戦の天才、というのが正しいでしょう。どう考えても定石を外しているような戦略を立てて成功していますが、それは敵の人脈、能力、国力などを計算して、自分の作戦が失敗したときのリスクと、成功したときの恩恵を比較考量して、常識はずれな戦術を出していると思われます。

仮に孫策が暗殺されず、生き残ったとしても、孫策を恐れて魏が守りを固めていたとしても、呉が他国と同盟を組んで魏を襲う危険性と、暗殺を待つ希望を計算すれば、やはり暗殺に期待をかけるほうが可能性は高いですし、郭嘉ほど頭がよければ、孫策をワナにかけることも容易かったでしょう。また、冬になって呂布の追撃を諦める軍師の意見を押し切ったのも、曹操の考えに郭嘉の戦略がぴったりだった、という説よりも、呂布の追撃に当てる兵力の損失と、呂布がこの後生き残って、自国に与える被害を考量した場合、前者を失う方が利益があると判断したからではないでしょうか。

実際の歴史では百発百中の予言力ではなく、いくつか外しているものもあるとは思います。ただ、外したとしてもそれは致命的な失策というレベルのものにはならなかったでしょう。そう考えると、曹操に対して、イエスマンだった、というだけではなく、情報を集めて、最良の作戦を考えることが出来た人、と私は考えます。確かに私生活はだらしなかったようですが、私生活のだらしなさで致命的な失敗をしていないところを見ると、遊びは遊びと割り切り、その辺の分別はついていたのではないでしょうか。(05.11.12)

 

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