作画/雲才

字(あざな)/孟徳(もうとく)

生没年/155年〜220年(66才)

馬/絶影

 

武 勇

7

 

 

 

戦 術

9

 

知 略

9

 

カリスマ

10

人 望

7 

 

 

 

外 交

7

 

 

 

内 政

10


 

コーエー「三國志」シリーズに見る曹操の能力値変遷
陸戦指揮、水戦指揮はIIIのみ、
運勢はI のみの設定。赤字はシリーズ中の最高値

 

知力
武力
魅力
政治力
統率力
陸戦
指揮
水戦
指揮
運勢
I
93
94
100
 
 
 
 
97
II
95
91
95
 
 
 
 
 
III
94
89
98
90
 
93
59
 
IV
92
88
98
97
99
 
 
 
V
96
87
98
97
 
 
 
 
VI
95
80
97
98
100
 
 
 
VII
93
92
97
92

 

 

 

 

VIII
91
68
96
94

IX
92
72
 
96
99

 

 

 

X
92
71
96
96
99

 

 

 

演義準拠の時代から評価は飛びぬけて高かった。初代ではカリスマ(魅力)が劉備よりも高い100を誇る。シリーズが進んで概念が変わってきたので武力だけが減少しているが、他は欠点が見当たらず完璧に近い。

 


中国の河北省、邯鄲市臨ショウ県三台村、
「銅雀台」(曹操が築いた宮殿)の跡地に建つ
曹操の石像(2012年5月、哲舟撮影)

 

 

 

 


武漢・亀山公園に建つ曹操像
曹操ゆかりの地ではないが、三国志の英雄として
劉備・孫策・孫権らの像とともに建つ
(2014年5月、哲舟撮影)

曹 操 (そうそう)

後漢という乱世に現れた風雲児。「劉備や孫権よりも圧倒的優位ながら、中国統一できなかった」として、歴代皇帝などより低く見られることも事実だが、欠点が多いところも、この人物の魅力ではないかと思う。

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曹操は幼名を阿瞞(あまん)、または吉利(きつり)といった。元々の家柄自体は、それほど良くない。父の曹嵩は宦官として権勢を誇った曹騰の養子となり、朝廷で重んじられるようになった。その息子・曹操は父の威光を借りた平役人に過ぎなかったが、若くして機知・権謀に富むことで知られた。

しかし、外見は姿貌短小(小男)であった。「軽佻浮薄な人柄で威厳がなかった」とも評されており、容姿には自身、相当なコンプレックスを抱いていたのではないだろうか。

その反動か、品行が悪く、放蕩ぶりには限度がなかったので、評判は良くなかったという。ある時、宦官の張譲の邸宅に忍び込んだところを発見され、手戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げたが、誰も彼に近付けなかったというほどの武勇も持っていた。

そんな若き曹操を、太尉の橋玄は「天下は乱れようとしている。天下を安んずるのは君かもしれぬ」と高く評価した。その橋玄が紹介した許劭に会いに行くと「君は治世の能臣、乱世の奸雄だ」と評された。または清平の奸賊、乱世の英雄と評されたというが、後者のほうが曹操の人物像には合っていると思う。曹操自身はその内容よりも許劭に評価され、名声を得たことを大いに喜んだという。

20歳を過ぎた頃、曹操はある一件からさらに有名になる。洛陽北部尉に着任した曹操は、違反者に対して厳しい態度で臨んでいた。そんなおり、霊帝に寵愛されていた宦官・蹇碩の叔父が、禁止されている城門の夜間通行をしたため、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺すよう命じた。以後、禁を犯す者は現れなくなったという。

宦官らは曹操を厄介に思い、追放しようとするが、理由が見つからないため逆に県令に栄転させて洛陽から遠ざけるという方策をとった。

184年、黄巾の乱が起こった時は潁川へ向かい、皇甫嵩や朱儁のもとで黄巾軍討伐戦に参加。功績を挙げて済南の相に任命された。後に数年間の隠遁生活を送るが、それにも関わらず、黄巾の乱平定に功のあったとして「西園八校尉」のひとりに任命され、再び朝廷へ出仕した。彼の存在は、知る人ぞ知るところとなっていたのだろう。

その後、洛陽へやって来て政権を掌握した董卓も曹操の才能を認めたひとりだ。董卓は曹操を配下に取り込もうとするが、曹操はそれを嫌って洛陽から脱出し、故郷へ逃げ帰った。『演義』では、曹操は王允から「七星剣」を託されて董卓暗殺を依頼されるが失敗して逃亡するという流れになっている。

董卓のもとから逃れた時、曹操は恩人の呂伯奢(りょはくしゃ)とその家族に厄介になったが、食器を用意する音を殺害の準備と勘違いしたことが原因で、誤って彼らを殺害してしまう。その時に、曹操は悪びれもせず

「わしが人を裏切ることはあっても、人がわしを裏切ることは許さない」
(俺が天下に背こうとも、天下の人が俺に背くことは許さん)

と言い放った。これこそ、曹操=悪役のイメージを決定付けるエピソードである。これは『正史』の本文には記されていないが、裴松之が引用する『異同雑語』などで紹介されており、曹操の生前か死後まもなくには、すでにそういうエピソードが表れていたのかもしれない。『演義』では、この発言に呆れた陳宮が、曹操のもとを離れて行くことになっている。

その後、董卓に反発した諸侯が「反董卓連合軍」を結成する。曹操も私財を投じて挙兵し、この時に夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪らも合流し、加わっているが、まだ兵力は5千程度だった。そして同僚だった袁紹のもとに駆けつけたが、集結したはずの連合軍は董卓の軍勢の精強さを恐れて進軍せず、酒盛りを兼ねた軍議を繰り返すばかりだった。

その後、南方から唯一攻め上った孫堅軍が董卓を「陽人の戦い」で打ち破ったため、曹操は好機とみて追撃を袁紹に進言するが、却下された。曹操はやむなく、鮑信や張バク配下の衛茲(えいじ)とともに董卓を攻撃したが、董卓配下の徐栄軍に大敗し、壊滅した。


曹操軍が徐栄と戦った河南省鄭州市のケイ陽の近くにある虎牢関遺跡(2012年5月・哲舟撮影)

落ち延びた曹操は、夏侯惇らとともに兵を集めて再起を図った。敗れたとはいえ、ほぼ単独で董卓軍と戦った曹操の名声を慕い、多くの勇将や策士が集まってきたという。

やがて董卓が呂布に暗殺され、にわかに世情が慌ただしくなる。そんな折、曹操は青州で騒ぎを起こした黄巾党の残党討伐の詔勅を受けた。曹操は鮑信や陳宮の協力も得てこれを討伐し、黄巾軍の兵30万人を降伏させた。その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けて用いた。これで曹操軍は一気に戦力を高めたのである。

しかし、193年に曹操は陶謙に父・曹嵩や弟・曹徳を含めた一族を殺され、その報復として徐州へ侵攻。彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。徐州からは曹操を恐れて多くの人が荊州などへ逃れたが、諸葛亮の一族も含まれていた。この前後に曹操陣営に居た陳宮も、曹操のもとを去っている。

罪もない数十万人の男女を殺したとも伝わるこの「徐州大虐殺」は、曹操の評判を大いに落とした。先の呂伯奢のエピソードと並んで、曹操の悪名を高める出来事だったようで、これらは後世に作られた『三国演義』などにおいて、曹操=悪役という位置づけにも大きく影響したとみられている。

196年、曹操は荀ケと程cの勧めに従い、長安から洛陽へと逃れてきていた献帝を迎えに行く。そして献帝を荒れ果てた洛陽から自らの本拠である許昌に連れ帰ったのであった。献帝は曹操に感謝して大将軍に任じ、武平侯に封じた。皇帝の後ろ盾を得た曹操は「官軍」となり、大いに権勢を高めたのである。

翌年には張繍とカクの計略にかかって敗れ、長男の曹昂と忠臣・典韋らを失う失策もあったが、すぐに態勢を立て直して長安で李カクを滅ぼした。さらに198年には徐州で呂布を水攻めによって滅ぼし、199年には袁術を病死に追い込んで滅ぼすなど、中原制覇に向けて一気に前身する。曹操の勢力はエン州・司隷(司州)・豫州・徐州の四州に及んだ。

だが、その行く手に最大の敵が立ちはだかった。公孫サンを滅ぼし、河北四州(冀州・青州・并州・幽州)を手中に収めていた袁紹である。

200年、両軍は白馬で激突した。袁紹が淳于瓊・郭図・顔良を派遣して白馬津を攻撃させたことを知った曹操は、荀攸の策に従い、囮の部隊を用いて袁紹軍を撹乱し、顔良を討って勝利を収めた。続く延津でも勝利して弾みをつけると、一大決戦の「官渡の戦い」でも兵力・物資ともに圧倒的に不利な状況ながら袁紹軍を打ち破った。


河南省中牟・官渡古戦場に建つ曹操の像(2012年5月・哲舟撮影)

その後、曹操は袁紹軍の残党および、袁氏に味方する烏桓族を7年かけて討伐し、河北を平定した。中国の北半分を制した曹操の勢力は圧倒的なものとなったが、荊州の劉表と劉備、江東の孫権、益州の劉璋など、まだまだ侮りがたい勢力が残っていた。

荊州の劉jは曹操の侵攻を聞くや降伏したが、劉備は孫権のもとへ逃れ、同盟して曹操に対抗する。曹操は長江の北岸にある烏林に船団を置き、南攻の準備をしていたが、孫権軍の部将・黄蓋の偽りの投降に騙され、火攻めを受けて船団は壊滅してしまった(赤壁の戦い)。

この敗戦で曹操は以後、積極的に南方の荊州を攻めることができなくなり、東は揚州の合肥・濡須口や、西は益州・漢中へと兵を進める。だが、実力をつけた孫権や劉備の軍勢を打ち破れず、いわゆる「天下三分」の状況を許すことになってしまった。曹操最後の采配は、関羽に包囲された樊城の救援にホウ徳や徐晃を送り込んだことだった(樊城の戦い)。

220年、病のために死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くせよ。墓に金銀を入れてはならない」と彼らしい遺言を残した。


中国の河南省安陽市安陽県で2009年に発見された曹操の墓とみられる遺跡(曹操高陵)。
曹操および妻と側室1人の人骨、「魏武王」の3字が刻まれた石牌などが
出土したことから、曹操の真墓である可能性が高い。2012年5月、哲舟撮影

三国時代の「魏」の創始者とされる曹操だが、自らは皇帝の座には就かなかった。213年に董昭らの提案に従って「魏公」となり、216年に「魏王」となったのみである。曹操は後漢の皇帝の支配下にある「王」のひとりになったに過ぎず、「丞相」の肩書きで通し、帝位簒奪をしなかった。その意を問われた曹操は「自分は周の文王であれば良い」と答えたという。

文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたにも関わらず、死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された。その言葉通り、後を託された曹丕は父の死の翌221年に献帝から帝位を奪い、「魏」を建国してその初代皇帝となった。

袁紹や袁術のような基盤や名声を持たず、小役人の身分からから中国北部統一を果たした業績はアジアを代表する世界的な英傑のひとりといえる。その強さの秘密は戦争や兵の統率に長けていたことが大きい。

文章家でもあった彼は、その戦術理論をいくつもの兵法書に記した(太公陰謀、兵書接要、兵書論要などがあったがいずれも散逸)。現存する有名な『孫子兵法』13篇は、曹操が編纂したものである。

210年に布告した「求賢令」では「唯才是挙」の姿勢を打ち出し、家柄や過去の罪を問わず実力本位の人材登用方針を打ち出すなど、その政治手腕も画期的だった。また、子の曹丕・曹植とともに「三曹」と称される詩の才能を有し、「九ウン春酒法」という酒の醸造法を書き記すなど一流の文化人でもあった(その製法から紹興酒や日本酒の原型ともいわれる)。

『演義』においては、善玉に描かれる劉備に対して悪役に描かれ、本場でも長らく「嫌われ役」だったが、近年は再評価が進み、支持する人が急増している。日本では昭和初期に吉川英治が悪役ながら悪を超越した英傑として好意的に描いたのをはじめ、「人形劇三国志」の生みの親である川本喜八郎も曹操好きを公言していた。

こうした流れから『演義』を原作とする作品でも魅力的に描かれることが多く、日本の一般的な三国志ファンの間では、諸葛亮に次ぐ人気を誇る。(哲舟)

※文章の著作権は哲舟に、一部借用・引用画像の著作権は作者および各メーカーに帰属します。無断転載を堅くお断りします/管理人・哲舟



コーエー「三國志」シリーズに見る肖像変遷(左より1〜10の順に並んでいます)

(寸評)為政者であり武人でもある曹操らしく、作品によって冠をつけていたり兜をかぶっていたりと忙しい。4や6は軍中で政務をこなしている最中だろうか、どっちつかずの格好をしている。初代は目をつぶった顔だったが、不評だったようでファミコン版ではパッチリと目を開けた絵に変えられていた(私はパソコン版の顔も結構好きだったが)。個人的ベストは5。大胆不敵な笑みが不気味で、いかにも曹操らしい。近作の顔も悪くはないが、これといった特徴がないのが残念。

初代ファミコン版 ※画像の著作権は株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。

ギャラリー

作画/
祖茂

 


三国志ファンが斬る! 過去に皆さんから寄せられた書き込み、投稿です。

南部 殿

策士策に溺れる所、慢心した瞬間の負けが多いところ…
魅力と言えなくもないですなぁ。

阿Q 殿

本物の能力第一主義者…とてもあの時代の人物とは思えませんです。
尊敬している歴史上の人物を聞かれたら、「曹操」と答えています。

香香 殿

三曹のなかでは「下」とされる曹操の詩が一番好きです。あれだけ妻妾が犇いていた後宮を取りしきれたのは立派ですねェ。

新荘剛史 殿

冷酷な政治家の顔と情深い文人としての顔、この両面のギャップがいい。

功明 殿

人材登用にかける情熱めいたところが好きですね。

南部殿

吉川三国志の陳宮を殺したくない曹操の青臭い問答がなんとも好き。

哲坊

戦で勝つのも派手ながら、負ける時もまた派手で、
その豪快な負けっぷりがまた良い。

哲坊

関羽との男と男の恋愛にも似た、
潔いエピソードにたまらなく惹かれるものがあります。

goshin 殿

若かりし頃は、曹操の
「我をして天下の人に反かしむるとも、
天下の人をして我に反かしむるを止めよ」

に不思議な感動を覚えたものでした。

紫龍 殿

若かりし頃の曹操殿は素晴らしい。
荀イクが死んだ頃から好きではなくなりもうした。

八卦の陣 殿

あの人間として、男としてのスケールの大きさ!惚れます!
自分もああいう人間になりたいと思う!

大熊猫 殿

なんといっても懐が深い!まさに英雄!やっぱりかっこいいですね〜。
殺されそうなので傍にはいたくありませんが(笑)

Dusk 殿

荀イクは「死んだ」のではなく、曹操自身が「死なせた」のではないかと思います。若かりし頃と比べて、権威・地位への欲望にとりつかれてしまった晩年は、見ていて悲しいものがあります。

トリホー殿

ゲームの都合もあろうが、武力以外はすべて100点の英雄と私は見る。光栄は甘い。天下情勢を見切り、手中に収め、三国を半統一した男曹操、同じ英雄として扱われる玄徳とは問題にならない実力者。郭嘉、荀イク、程c等の高級ブレーンを使いこなし、功臣といえどもあっさりきりすて、敵国を侵略し、戦勝を謳歌するなんて天才を通り越した大英雄ですね。「余にはむかう者は許さぬ」なんて普通の人間には言えませんよやっぱり。

で〜こう 殿

「演義の主役は劉備、史実の主役は曹操」

蕭何 殿

国語の便覧の中国の詩人の欄にしっかり名前の載ってる曹操、さらに法家の系譜に韓非子や李斯や王安石と共に名が載っている曹操、ただの覇者ではなくこういう覇業以外の所にも名前が載っているところが曹操の天才のゆえんなのだろう。

陥陣営 殿

「治世の能臣、乱世の姦雄」「詩聖」「破格の人」「絶人」「覇者の器」等、様々な二つ名を持ってはいるが、曹操孟徳を形容する言葉は、やはり「天才」の他には無し、と思っています。天下に覇を唱える器が有ったのは、この英傑をおいて他には居りますまい。

巴蜀 殿

中原を完全に制圧しながら中国統一を果たせなかったのは、曹操にも詰めの甘さがあったのでは?それとも孫権や諸葛亮が強すぎたのだろうか・・・

蜀漢の回し者殿

「曹操なんぞ所詮ミニ始皇帝」だと思いますが・・・あのまま天下とっていたら何したかわかったもんじゃない、なにしろ徐州で大量虐殺した男ですからね!「曹操は三国志の主人公」と一般には言われていますが、三国志がこれだけメジャーになったのは、まぎれもなく劉備と孔明と羅貫中のおかげだと思います。曹操みたいな残忍な奴が天下取ったって全然面白くありませんからね。それに曹操は「天才」とか「1000年に一度の英雄」なんて話も聞きますが、それもないと思います。
そんな天才で英雄なら不用意に部下を斬ったり、肝心な戦で負けて天下三分・・・なんてこともないはずです。だいたい曹操の「革新的」な政策である屯田制も「劉秀」のパクリみたいなものであるし曹操よりも袁紹の方が先に屯田制を取り入れていたという話も聞いた事があります。 

げんじょ〜 殿

曹操は天才です! そもそも天才という意味は他人にはない優れた才能を持っているという意味です。それに、曹操は常に同盟を組まず圧倒的不利な状況を乗り越えています。そして三国一の国を創っています。肝心な戦で敗れて天下三分とありますが、よく考えてください。有名な赤壁の戦いで曹操は敗れました。ここで曹操が勝っていたら? 三国志ではなくなってしまいますよね?
つまり、曹操は負けた事によって三国志の世を創った人なのだと某は思います。屯田制は袁紹の方が先にとり入れていても、曹操のほうが屯田制で有名なのは、アピールがあったからだと思います。やはり、曹操は千年に一度の英雄です!

飯蛇 殿

軍事面ではペケもあります。しかし文化や誌に対しては完璧としか言い様のない人間です。蜀漢の回し者様のようなことも一理ありますが、孫子の兵法書に注訳を入れる軍人もなかなかいないのでは? 第一今曹操がいなければ今の中国はないくらいの影響を与えましたから。

アッシー 殿

やはり蜀漢の回し者様の言うように曹操は英雄であって天才ではないように某は思えます。たしかに詩の才能や文化に与えた影響は凄いものがありますがそれだけでは天才とは言えません! 便覧にのった人がすべて天才とは言わないですし・・・。

哲坊

「天才」の基準が人によってまちまちなので、賛否はあると思いますが、様々な分野、あるいは一芸に秀でた人を天才と呼ぶならば、曹操は充分に天才といえる人物ではないでしょうか。

しんじょうこうじ殿

良いものは積極的に取り入れ、悪いものは破棄する。単純にして明快なことができる。このことが曹操の曹操たる所以かと
たしかに曹操という人物は天下を統一できなかった。そのことを以って評価するなら天才ではないでしょう。しかし孫子の兵法を実際にためし注釈をつけ、体系化したのは彼です。文化面においてもと言う発言がありますがそれまで市井のもの(流行歌)みたいなものであった詩を文化といえるものに仕立てたのは曹操の功績ですよ

また屯田についても地域地域で行っていた軍閥はあっても全国規模で行ったのは曹操が最初のはずです。その辺は評価しても良いかと思いますが…
今、三国志史上最大の天才と謳われている諸葛亮でさえ、曹操の政策を真似ていたのですから。資質ということで論じてはいけないのかもしれませんが彼は”天才”の名に恥じないと思いますよ。

耶麻爺 殿

曹操の最大の持ち味は軽装兵を率いての奇襲、急襲にあった、と考えられます。実際彼が徐州で劉備を破った時や官渡の時の干巣焼き討ちなんかはその成果ですからね。これは彼の戦法を駆使できる兵数が数千レベルで最大の効力を発揮するためでしょう。そういう意味で彼は時局を見て攻め時のポイントを正確に突いて、少数精鋭の部隊でもって戦局を一気に覆すのが得意な人物となり、そう言った方面ではまさしく天才と言えるのではないでしょうか?

単に猪突猛進するだけではないのですからね。後、屯田に関して、それまでの屯田は軍屯と言って兵士達が戦いながら耕していたのですが、それを民屯として全国的に専業農民を抱え込むと言うシステムを作り上げたのはやはり曹操ならでは、と言うことになるのではないでしょうか? 時代は違いますが信長が兵農分離を行い専業兵士を作り上げたのと匹敵するぐらいの事跡だと思います。(02.9.1)

亞兎 殿

残忍すぎて一人の人間としてはあまり好きになれません。しかし、それくらい冷酷な性格でないと天下人にはなれないのでしょうね。(02.9.1)

さめろく 殿

大軍の総司令官には、夏侯淵、夏侯惇、曹仁、曹洪といった、一族のもの意外を据えることが滅多になく、意外に能力主義ともいえなかったのではないだろうか・・・とも思ったりします。まあ、敵を多く作っていましたし、仕方がないのかもしれないですね。 (02.9.1)

耶麻爺 殿

ん〜〜、言われているほど残忍ではないと思うのですが・・・敵も・・・単純に一族で優れている人物が多かったから彼らが上に来てた、と考えても構わないと思います。曹操についてですが、当時王○○と言う碁打ちの名人が居たらしいですが、曹操の碁の腕前は彼に匹敵してたらしいですね。恐らく碁盤上で碁石を展開させるのと兵を率いて戦略を駆使すると言うのはどこか通じる物があるのでしょう。
それと酒の造り方で「三段仕込み」とかありますが、そう言ったのを最初に文書化して漢王朝に曹操は提出しているみたいです。実は三国一の酒好きだったという話もあります。こう言ったいろんなエピソードを聞くと、分野こそ多少違えど、彼はレオナルド・ダ・ビンチに匹敵する人物だったのではと思います。そう言った意味でやはり彼は天才かな?と思いますね。(02.9.13)

哲坊

個人的には、演義の曹操も充分魅力的だと思えます。乱世では邪魔者の100人や200人は殺すぐらいの残酷さがないと生き残れない。そもそも今の価値観で測ると、昔の武人は皆犯罪者になってしまいますからな。(02.9.13)

トリホー 殿

「その残忍無比な冷酷さは西太后さえ遠く及ばず、その非情なる脳細胞は悪魔をも上回る。」曹操にはこんな形容が相応しい。それでもおそろしい魅力を放つこの曹操一体何者だったんだろう?おそらく英雄性と魔性の魅力を兼ね備えた男だったに違いあるまい。 (02.10.13)

文種 殿

世の中で思われているほど残忍でないと思います。確かに徐州の大虐殺は曹操の人生の汚点でしょうが、関羽の事や郭嘉のことを考えると、個人的にはそこまで残忍ではないように思えます。一族が重要職に就くことが多いのは、名士に君主権力を奪われないようにするためではないでしょうか?実際に最終的には名士の司馬懿が実権を奪ったわけですし(03.2.5)

魏将 殿

三国志の中で最も私が好きな人物(根本的に魏派)。曹操を好む人間も多いが嫌う人間も多い。それこそ英雄!何と言っても曹操の元には有能な方々が多い。あれほど有能な方々が揃っている所はない。(そこが魅力)全体的に曹操が批判されるところは残忍なところでしょう。しかし乱世を乗り切るには時には残忍になることも必要であると私は思う。徐州での虐殺は私怨であり、批判されても仕方がないが私はそれでこそ曹猛徳であると言いたい。真の覇王であると!(03.3.3)

史進 殿

大好きです。甘くなくてすごくリアルな人物で。蒼天航路の孔明の言う通りですね。まさに人間の傑作です。本来こうあるべきなんですよ、三国志の時代はどこも独裁政権なんだから (03.4.5)

頴娃 殿

天才なのか気になって、曹操伝読みましたが、「この人神か?」これが自分の精一杯の意見です。三国志の人材の中では間違いなくNo1でしょう。それを示すエピソードが多すぎるからなあ。徐州大虐殺は私怨もあるけど、寧ろ陶謙のせいではないかとも思えます。 大体陶謙が曹操の父親を殺さなければ、徐州大虐殺なんかおこらなかったから。あと、曹操を残忍という方が多いですが、殺した数で残忍と決まるのではないと思います。 殺す動機に「残忍」という言葉などが関わっていると思います。 曹操には「父親を殺された」という動機が、少なからずあります。 だから、無駄に人を殺した甘寧や潘璋のほうが残忍だと思います。 そもそも中国という国は、残忍なのが普通ではないでしょうか? その頃は平気で息子を殺したりする時代でしたからね。
陳寿の「曹操は権謀のかぎりを尽して天下を駆けめぐり、よくこれに対抗した。かれは、申不害の法術と韓信・白起の奇策を兼ね備え、適材適所に人材を登用してかれらの能力を発揮させ、感情をおさえ計算に徹して、その人物の過去にこだわらなかった。ついには皇帝としての役割まで担うようになり、大業を成し遂げる事ができたのは、その機略がもっとも優れていたからである。かれこそは非常の人であり、超世の傑であろう(間違ってるところがあるかも・・)」これがピッタリです。天才で偉大で英雄な曹操。まさに、「非常の人で、超世の傑」ですね。 (03.4.5)

パルチザン 殿

もはやこの人物を一言で語ることはできますまい。もし一言で語るとすれば「現人神」「超世の傑」でもこの言葉でも足りないと思うくらいです。少しダーティーなイメージがありますがこれは乱世を生き抜くための必要悪だと思います。若い時を除いて曹操は自分の欲望だけのために何かをしたことはなかったと思います。もしかしたら曹操は自分が後の世で悪人になることを知っていたのかもしれませんね。(03.4.25)

小鳥さん

始め曹操は嫌いだったんですが…(蜀びいきの典型的な例ですね)水もなく兵士が一歩も進めなくなったときに、曹操が前方の山を指差して「あの山までいけば梅の実がいっぱいなっているから頑張れ」と嘘をつき、兵士たちに梅の実を想像させてのどの渇きを癒させた―あのエピソードを知ってからは曹操は私の中の尊敬する人になりました。あの発想に思わず唸ってしまいました。(03.6.23)

芋焼酎 殿

はじめまして。各武将の方々が曹操について賛否両論が飛び交っておりますが、これってトップになったものの宿命ですね♪ しかしトップになった者は皆、孤独になる宿命でもあるんですよね(悲)信頼する者にいつ裏切られるかわからない、人間不信、疑心暗鬼の毎日だったのかと思います。曹操も残忍さを持っていましたが、好んで残忍になる人間はいませんし、彼がそうなったのは、その当時の生存競争は想像以上に過酷だったということは言うまでもありません。(03.7.22)

美髭公 殿

徐州の大虐殺は本当に私怨なんだろうか? 後に息子曹昴や典韋を殺した張本人、張繍&賈[言羽]の投降を認め重用しているところを見ると何か考えあっての侵略だったのかも……(03.7.22)

ジョン千次郎 殿

三国志を知って間もない頃は劉備っていい人やなぁ、曹操は悪いやつやなぁとか思ってたんですが、段々曹操って凄いって思うようになりました。あらゆる方面で業績を残し、こんなの誰にも真似ができないと思いましたね。残虐な面もありますが、劉備だって身内を殺されて兵を起こしたのは同じです。私怨のために大軍を起こし、結果失敗して多くの犠牲を出しました。曹操はだめで劉備は良いというのはおかしい気がします。同じ事をやってるわけですし。まぁ演義は劉備メインですし美化されてるからしかたないでしょうが…。後、曹操は天才か、とかいう議論が繰り広げられていていたようですが、私は天才だと思います。残虐な面は誰にだってありますし、失敗のない人間なんてありえません。それに、天下統一できなかったから天才でないと言うなれば、諸葛亮だって天才ではないことになります(私は彼も天才だと思うんですけどねぇ)。ただ、「蒼天航路」の曹操はちょっと完璧すぎて、後半は人間的な面白味に欠けますねぇ(03.7.22)

高杉殿

戦国の世の中でとり得るありとあらゆる手段を使い天下統一を目指す曹操の姿はまさに「破格の人」であり、それゆえに三国志の登場人物中最も存在感のある人物です。己に絶対の自信を持ち、覇業のためなら非情なまでの行為を行うことが出来、あらゆる風習、既成概念を打ち破るその行動力と知性。こう書いていると私にはもう1人の英雄が思い浮かびます。織田信長。彼もまた天下統一のためならあらゆる常識を打ち破り無尽蔵の行動力で覇道を突き進んでいます。二人には驚くほどの共通点がありますがその中でも特に戦略が上げられます。彼らの戦略は策略を以って敵を攻めるのではなく、必ず勝てるまでに計算され尽くした、臆病ともいえる戦略を最も好んだことです。それゆえに負けるときは大敗、勝つ時は快勝なのです。たとえ負けても瞬時に次の戦略を考える頭の回転の速さも彼らの戦術を支える要因のひとつです。しかし曹操には信長に無いものを持っています。それは人間への飽くなき好奇心です。彼は常に優秀な人材を好み、たとえそれが敵でも受け入れて優遇し、さらに彼らの知識を自分に取り込もうとします。一方信長は、自分への自信の強さからか…(以下、文字バケにつき読めませんでした。ご本人が送り直してくだされば掲載しますので、よろしくお願いします) (03.7.22)

赤ちゃん利器 殿

やはり、今の普遍主義的な価値観で言っても曹操が一番すぐれていると思います。孔明や劉備は、漢帝にこだわりすぎて、民をないがしろにしていると思う(帝を大義名分に使っただけなら良い戦略だと思うが)。孔明がほんとに民衆のためを思うなら、劉備でなく曹操に仕えるべきだと思う。そうすれば、いったい何百万人の命が消えずに済んだだろうか。そういった面では、帝を利用するだけのみ考えてた曹操はより民衆よりだと考えれると思う。(03.8.18)

フロリス 殿

曹操を、天才的な戦上手、優れた政治家だとほめる人もあれば、徐州でやってのけた虐殺を理由にして批判する人もあり、十人十色の曹操観がある。これは、とりもなおさず、曹操が偉大な人であった証拠になると思います。

しかし、いろいろな王朝の創始者と比べてみると、(乱暴な言いかたをするのを許してください)虐殺と言っても、殺した数では毛沢東主席のほうがはるかに上だろうし、冷徹さでは徹底した粛清を繰りかえした明の太祖に及ぶまい。戦上手と言ってもチンギス汗ほどではない。政治手腕ならば軍人出身でありながら文治体制を確立した宋の太祖のほうが優れている。曹操は能力主義の人材登用を行ったと言っても、魏晋南北朝はけっきょくその甲斐もなく、貴族政治に落ち着いたのだから。このように見ると、曹操はあんがい目立たない人であるようにも思える。

が、外面的な業績とか戦績なんぞを全てはぎ取って、一人間として見れば、曹操ほど面白い人はない! 墓を暴いて軍資金を稼いでおきながら愛児曹沖が死んだときには手厚く葬って「冥婚」までさせてやる。どこまでも抜け目のない合理主義者かと思うと怒りにまかせて暴れる。冗談好き(笑い上戸?)の快活な人かと見れば、容姿や出自に全然自信をもてなくて、うじうじ劣等感に悩んでもいる。豪放でありながら神経質。冷徹であるべき指導者としては感情の起伏が激しすぎる。感受性も強すぎる。でもそのために芸術的な才能には恵まれている。こういう、矛盾だらけで複雑で、振幅の大きい人間は、世界史上でもそう多くはいないのではないか。曹操は、この上なく面白い、人間らしい人間である。もしそばにいたら疲れさせられるだろうけれど…(笑) 人間としての曹操を考えることも必要と思い、論じてみました。(曹操の一崇拝者)  (03.9.23)

まりオ 殿

曹操は天才だと思います。戦では生涯勝率が彼の非凡な才能を証明していますし、政治面でも屯田制などを実施したりしていますしね。また酒造りや造船の革命など常に時代をリードしています。特に「建安の七子」などの漢詩地盤を作った偉業はもっと評価されていいと思います。自身も詩人として優秀なものを残していますしね。火計や伏兵など用兵を発展さしたのも彼ですし。もうどこをとっても凄すぎます。(04.8.18)

天神 殿

私は日本人としては珍しく正史(秘本三国志)から三国志に入りました。(父親も三国志好きな為最初に読まされた)曹操の魅力にメロメロにされてしまいました。私は日本の戦国武将なら、織田信長といった感じでどうもこの手の人物に惹かれてしまいます。軍略(孫子の注釈・鉄砲の用兵)、政治(屯田制・楽市楽座)、人材登用(実力主義)、文化(詩を芸術への昇華・茶の湯)、宗教(道教の保護・キリスト教の保護)など、ありとあらゆる事において才能を発揮しているこの二人はまさにその時代の英雄であり、偉人であると思います。自分もこういう人物になりたかった…。(その夢は孟徳と言う名前と共に息子に託しました) (04.10.3)

鳳韶 殿

始めまして、鳳韶と申します。個人的には、曹操は文武両道の名君だとのイメージが定着してます。また、彼は宴席で笑いすぎて皿に顔を突っ込み、冠をベトベトにしてしまうと言う話があるし、演義で描かれているほど残酷では無いと思います。ちなみに曹操好きなのは、曹丕・曹彰好きだからなんですけどね。 (04.11.1)

コリンキー@鄭の皇帝 殿

流石に父親が殺されては、冷静沈着の曹操公でもプツンといったのでしょう・・・でも、徐州大虐殺は痛かった。何が痛かったかって、諸葛亮を徐州から荊州へ退避させてしまった事。これのせいで、曹操は赤壁で大敗し、劉備は徹底的な「ダメ男」から皇帝になっちゃうんだから・・・因果応報とは恐ろしい・・・しかし、三国志演義ほどの極悪非道ぶりはなかったはずです。裴松之の注も、怪しいものが多いですからねぇ・・・(04.11.1)

鈍龍 殿

曹操、好きですねえ。演義では彼のダーティーな部分がかなり強調されていますが、ちょいとやりすぎですね(笑)。許子将が曹操にたいし「君は治世の能臣、乱世の姦雄だ」と言った、という有名なエピソードがあります。が、本来は「君は清平の姦賊、乱世の英雄だ」であり、少々ニュアンスが異なりまする。結局一代で全土の統一は果たせませんでしたが、そのことは彼の英雄性をいささかも損なうものではないと思います。中国全土を君主国家として最初に統一したのは秦。それまでの封建制度を廃し、君主一人に権力を集中させる、というやり方で他の旧態依然の国を圧倒しました。大人と子供の戦いだった、といえます。その後、漢の高祖はわずか10年足らずで天下を取っていますが、これはあらかじめ始皇帝や、ライバルの項羽が他の勢力をほとんど無力化させていたという点が大きい。完全に一から自力で天下統一を果たしたわけではない。

それに比べ曹操はどうか。始皇帝は、まず戦略、政略の双方で優位にたってから統一の戦をおこしましたが、曹操は逆に劣勢の場面からスタートしました(曹操が始皇帝より戦略眼に劣る、というのではなく完全に情勢、タイミングです)。そして、自分よりも優位、有力なライバル達を「全て」自分で滅ぼしていき、戦略面での劣勢をはねかえし、最終的に大陸の過半を勢力下におくことに成功した。・・・他に類を見ないのではないのでしょうか。(05.1.12)

ケンドー・バサラ 殿

人形劇三国志の曹操役の岡本信人さんの声色、最高です。中華行楽の従業員の情けない男とは、雲泥の差ですネ。(笑) (05.1.12)

tak 殿

曹操、憧れるっすねぇ。初めは魏は悪者だと思っていたんですけど・・やっぱ、生き残る術を知っていると言うか、それでいて、義に厚い部分もあって、関羽を執拗に追わなかったり、長坂で趙雲を生かそうとしたり・・・いい人っすねぇ。カリスマ性もあるし、後数年生きていたら歴史は変わっていたかも・・・僕は曹操に天下を統一してほしかったです。(05.4.23)

ゆた 殿

はじめまして。私はやはり、曹操は英雄だと思います。その理由は、当時の社会が抱えていた政治的課題である「民生の安定」と「秩序の回復」の解決を図り、ほぼ達成したからです。例えば屯田(民屯)は、兵糧の確保と共に、流民が生活手段を取り戻す政策でもあったわけです。そして、こうした問題意識を共有することで、多くの人材が曹操の下に来たのだと考えます。しかし、後世の人間にとっては、こうした問題意識や業績よりも劉備の掲げる「大義」の方が理解されやすく、「曹操=劉備の敵役=悪役」となったのだろうと思います。

ただ、曹操の弱点として、「騙されやすさ」があります。「自分が人を裏切ることがあっても、人には自分を裏切らせない」との言葉にもかかわらず(本当に言ったかどうかは別として)、頻繁に騙されています。信頼していた陳宮・張バクに謀反を起こされたり、張繍に襲撃されて息子や典韋が殺されたり、赤壁で黄蓋の偽降に引っかかったりといった具合です。この「騙されやすさ」が、曹操が天下平定をできなかった大きな要因だと考えています。

なお、徐州大虐殺について「死体で川が堰き止められた」という描写が用いられます。しかし、正史の話になりますが、『三国志』において、この描写は会戦の結果、つまり陶謙軍の戦死者の多さを示すものとして用いられており、虐殺については「通過した地域では多数の者を虐殺した」(ちくま学芸文庫版)とあるだけです。それが、140年後の『後漢書』において、現在のような書かれ方がされたようです。ゆえに、徐州大虐殺は、「あったには違いないが実際の規模や対象は不明」と考えるべきではないかと思います(それでも良いとは言えませんが)。(05.5.22)

灰神楽 殿

一代で中原を制覇しただけでも立派なものです。そもそも電話などの迅速な通信手段が無い時代、あの広大な中国を一つの王朝が統治することに無理があるんです。しかも三国だから一方にかまっていると、もう一方に付け込まれるという難しい状況。さらに孫権は義を捨て利に走る容易ならざる人物。そう考えるとものすごい偉業を果たした人物だと思います。彼の部下にはなりたくないですがね。。。 (05.5.22)

常敗将軍 殿

天下の統一などは風向きさえ良ければ司馬炎程度にも可能。それが出来なかったからといって、曹操の価値を減ずるものではない。信長とよく比べられるけど、信長よりはずっと仕えやすい君主だと感じる。忠誠を誓ってる限り、邪険に扱われる事はなさそうだ。まあ能力が無ければ出世はさせてくれないと思うけど・・・。(05.7.11)

仁丹 殿

曹操は何と言っても詩が素晴らしいです!特に「歩出夏門行」と「却東西門行」。「歩出夏門行」の最後の部分は現代人が読んでも心揺さぶられますよね。あと、曹操が詠んだという先入観のせいもあるとは思うんですが、彼の詩には喜びにも悲しみにも勢いと気迫が感じられます。私は文章を書くのが好きなのですが、「文章とは技術でなく心で書くもの」ということを千八百年も前の人物から学んだ気がします。(05.7.11)

神無崖縁 殿

誰がなんといっても三国志中最大の偉人であると信じてやみません(自分は蜀派ですがそれでもこればっかりは譲れないのです)。生涯勝率八割超って、それだけでもありえないほどすごいのに、九品制度に屯田制。一代にして中国大陸の約半分まで制覇する。短所も多いが長所はもっと多い。「時代を超えた英雄」と言わしめた彼は尊敬というよりは崇拝に近い人物です。孟徳新書なんで燃やしてしまったんですか!? (05.7.11)

u-ga 殿

三国志最大の英雄ですね。政治・軍事ともに抜群の才覚を持ち、文学を愛し、軍中においても本を持ち込み勉学に励む。素晴らしい才能を持っていながら、それに溺れることなく、更に多くの知識を求め続ける。酷薄で感情的になることも多く、冷酷な振る舞いもあった。しかし一方で世話になった人、或いはその子孫へ恩を返し、案外な人の良さ(騙されやすさ)を持ってもいた。

劉備や孫権がこういった面を持っていないとは思いませんが、戦陣において勉学に励み、文学を愛するという姿勢を持っていたのは曹操だけなのでしょう。項羽のように才能に溺れず、常に周りの声を聞き、敗北を喫しても何がいけなかったのか反省し、同じ負け方をしない。まさに非常の人、超世の傑ですね。(05.11.12)

無双天神 殿

私が思うに、「曹操に惚れずして、曹操を崇拝せずして三国志を語るべからず」これが三国志における自分の格言でしょうか。彼が魅力的な人物であるというのは国事における才能は勿論、詩や酒造法においても、つまり文学・技術において大きく貢献したというのもあると思います。また、悪役的魅力、性格面における魅力などは諸葛亮とは大きく異なり、同じ法家でも「信賞必罰」の諸葛亮の真面目一徹さと、「乱世の姦雄」の曹操の野心と大志では明らかにかけはなれているのです。合理主義、能力主義の曹操はとても千八百年前の人物とは思えません。

また、彼が赤壁において敗れたということは関羽、劉備、諸葛亮が非業の死を遂げた場面すら存在しないのですから、三国志演義の登場に不本意ながら(?)関係した人物なのですね。彼の詩、「短歌行」はまさしく彼の哀愁と豪放さが窺える作品、彼の感受性と能力主義ぶりはは作品から十分に読み取れることと思います。ただ謀略ごとは得意ではないのか、彼自身騙され易い人物で、そこは魅力でもあるのですが荀ケの死後はその魅力が露骨に嫌になってしまいます、人間完璧じゃないのですが荀ケの死後は年齢的にも衰えが見え始めるので。

ただ、彼から学べる事、得られることは数多く、必ず何かを考えさせられるのです、死して彼が伝えることは、千八百年後においても心に留めておくべきです。彼は姦雄であり、英傑でもある。関羽よりも彼こそが崇拝されるに相応しい人物だと思うのです。(05.12.26)

パンチパーマ 殿

天下統一は運だと思います。項羽は24歳で旗揚げし、26歳で天下を取ってます。なぜでしょう?それは秦vs反秦の二者の戦いだったからでしょう。始皇帝は6個の国を滅ぼし天下を取りました。なぜそんなことが出来たかというと、秦は元々とてつもなく強かったからです。その当時、合従か連衡かで諸国は騒いでました。それほど強かったと言うことです。後漢末の動乱は日本の戦国時代に良く似てます。つまりドングリの背比べ的な勢力が各地に数え切れないほど割拠していたのです。それらの勢力を次々と倒し、一代で天下統一まであと一歩という所までこぎつけたのは尋常なことではありません。やはり曹操は非常の人と言うに相応しい人だと思います。(05.12.26)

はる 殿

「烈士暮年、壮心已まず(丈夫はどんなに年老いても、志しは已むことはないのだ)」

・・・私はこの曹操の詩に魅了されたひとりです。「演義」では終始、悪役に転じていますが、人には善と悪では割り切れないものだってありましょう。・・まるで人生論ですが、そこが「三国志」が長く語り継がれている理由となりえると私は思います。私は「漢詩」の世界から曹操の凄さを知りました。

曹操は優れた文学のよき理解者として、曹操、曹ヒ、曹植の三人をし「三曹」と言わしめました。最も有名なのが「短歌行」という詩で、自分のもとに良き人材を招きたい思いを率直に歌った詩です。とてもリズムの良い歌で、出だしが、「酒に対して当(まさ)に歌うべし・人生幾ばくぞ・例えば朝露の如く・去る日の甚(はなは)だ多し」で始まります。全体を通してだいたいの意味が、「私は君達のような才のある士を招きたいと今まで思い続けてきた。皆がこうしてここにいるのだ、さあおおいに酒を飲もう」、こんな感じでしょうか。曹操の詩は意味が率直に人の心に伝わります。詩人としての能力は感性が豊かなことらしいのですが、「この人はすばらしい!」これが私のせいいっぱいの曹操への評価です。(05.12.26)

ナカムラ 殿

三国志演義では善玉の劉備に対する悪玉の曹操だが、何を云々する事があろう。強烈で魅力的な悪役がいてこそ善玉は輝く。巨大な物語には巨大な悪役が必要となる。曹操こそはまさに不世出の悪役として、三国志という不世出の物語が二千年の歴史に残り、永い間親しまれ続けることを定めた立役者の一人であり、実在においてもその巨大さに相応しい器と行動を示した巨人であったと言える。「非常の人、超世の傑」その言葉通り、非常の巨星、曹操は世を超えて今なお歴史の上に燦然と輝き続けている。(06.3.21)

武帝@ 殿

私は曹操という人物を織田信長の次、いや、同じく尊敬しています。どうも曹操と信長は、私のなかで同一人物のような気がするのです。なぜかというと、織田信長は天下統一のためには神仏を恐れぬ振る舞いや、天正伊賀の乱における虐殺など、悪行ともいうべき、凄惨たる行いをしたことは周知のとおりです。曹操にもそういったことが見受けられますね。一番説明しやすいのは・・・父を殺した陶謙への凄惨な復讐劇ですか。

しかしながら、そんな「悪」な一面を多々見せる信長と曹操には、「善」の一面も見受けられるのです。つまり、ときに善。ときに悪の一面をのぞかせるこの二人の行為は、為政者、当代の革命者、あるいは真の英傑こそがなせることであり、時代を超えて人を魅了させるものだと思うのです。(06.4.23)

アミーゴ 殿

完璧に近いゼネラリストであるにもかかわらず悪役に貶められている曹操。生まれたのが為政者としては高祖劉邦のような「偉大な無能者」が求められる中華であったのが不幸だったのでしょうか。(06.8.16)

牢拘中 殿

徐州が大虐殺なら、赤壁は一体何なんだ!と、心の中で叫んでます。どうも善玉とされる人物が行った場合と悪玉とされる人物が行った場合との表現の差が大きすぎる。徐州は陶謙との戦争で赤壁も呉との戦なので、曹操が行った時だけを悪く言うのは間違ってると思います。劉備も関羽の復讐の為に出兵してますし、この人損しすぎです。(06.8.16)

ごっついのう。

義なき故の不遇でしょうかね。恐らく、この人の人気のなさは「忠」こそ重んじても「義」を軽んじる傾向が当地での不人気を生んだようにも思えます。「忠」は上下関係のみにあるものですが、「義」は高位の人から庶民まで差別されることなく伝わる言葉ですからね。

英雄通信簿とも言える道教神格上げシステムでは、英傑の素質を備えながらも質素を旨としその生涯を終えた英雄を神にするという特徴も主合わせている気がしますね。太公望、墨子、関帝などはその代表格になりますが、広大な海原に航路を開いた鄭和提督などのスケールの大きい人物もそういう扱いを受けるようです。

富貴な人物で言えば、唐の玄宗皇帝李隆基(西泰王爺)などが上げられますが開元の治を開いたことよって民衆の暮らしを豊かに出来たことが民意を味方につけたのではないのでしょうか。後世になってみれば楊貴妃に溺れ政治を省みなくなったのも談話として楽しめますしね。

つまり政治先行で庶民にとって分けのわからないことばかりをやっていた曹操より、一介の貧民から身を上げて権力者に立ち向かう劉備軍の方が民衆に受け入れやすいイメージだったんだと思います。未だに「漢民族」などいう言葉が残っている当たりも曹操への風当たりの強さを間接的に感じる事が出来ますね。

かつては周朝800年の栄華さえも崩れ国は滅びた故、絶対の王朝繁栄などありえないものですが「漢」という国には並々ならぬ拘りを中国の人は持っているのでは? そうなると、やはり摂理とはいえ漢に弓を引いた曹操へはそれなりの評価が下ってしまうんでしょうね。曹一門の墓はゴミ捨て場にされたり、子供の遊び場にさえなってしまっているようですが一代の英雄にそれはいささかいきすぎにも見えましたね。08.2.13

田楽

能力・業績については他の方々が言及されておりますので、私は人間関係をば。曹操がいかに人に騙されやすい、人が良い人物だったかを伺える事例を以下に列挙してみました。

・頑張ったら報われる物だと思い、騎都尉の任を奮って勤める→宦官の癇に障って左遷

・自分が率先すれば、皆も董卓と戦うに違いないと信じて徐栄軍に突入→諸侯動かず

・朝廷の仲介に応じた陶謙を信じた和議を結ぶ→徐州内部の権力闘争のドサクサに巻き込まれて、父親の曹嵩を殺される

・親友の張バクを、もう一人の親友である袁紹との関係をこじれさせ、二人の板ばさみとなってまで庇う→その張バクを、同じく信任していた幕僚・陳宮、王階、許シ、そして呂布らに取られる

・劉備が降ってきたので信用し、程イク、荀ケの言葉を退けてまで取り立てる→裏切られた上に、献帝から自身を暗殺を計画する密勅まで受けており、命を狙われる

・張繍が臣従を申し出てきたので信用する→兄嫁を寝取った事を恨まれ、逆襲されて長男と腹心を失う

・張バクとの一連の事件、劉虞、献帝擁立問題でこじれていた親友の袁紹との関係修復に努める→絶交。父祖の代の事から馬鹿にされるような檄文を天下に流布される

・呉の重鎮、黄蓋が絶妙のタイミングで降ってくる→騙された上に船を焼かれ、天下統一への道が閉ざされる

・官渡以前から馬家とは同盟を結んでおり、馬騰も老いを理由に一族を引き連れて入朝。韓遂とは幼馴染。馬超に気をつけろと言っている人も居るが、曹馬韓同盟は永遠に不滅だ。→油断した瞬間、馬騰の息子の馬超に裏切られた上、幼馴染の韓遂も、まんまと御輿に担ぎ上げられてしまう

・夏侯淵に血の気の多いところを何とかしなさい、と散々忠告する。→信頼を戦死、それも将軍なのに最前線に出て行くという、自分の忠告を完璧に無視された、最悪の形で裏切られる。

受け取り方、書き方次第だとは思いますが、曹操が他人を疑い、粛清を始めるのは、騙された果ての晩年の話。 それすらも、崔[王炎]は「まさか曹公がそこまで思いつめられてるとは思わなかった」と言っていますから、本当に急な変貌だったのでしょうね。

また、曹操は、背が低く、華奢でした。 負ければ負け惜しみを口にするなど言動も子供っぽく、良い大人のする事じゃない悪戯も、成人後にやっています。 橋玄、許ショウ、何ギョウ、袁遺、袁紹、荀ケ、ら曹操の若き頃を知る人達が曹操に持っていた感情は意外と 「この子は人が良くて騙されやすいから、自分が居ないと駄目だ」という「駄目な子ほど可愛い」的なものだったのかもしれないと想像すると、愛嬌すら感じます。ちなみに、劉備は、信頼寄せてくれている相手を自身が見限った事は有りますが、信頼を寄せていた相手に裏切られた事は一度もなかったようです。08.2.13

 

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