作画/雲才

(あざな) 徳謀 (とくぼう)

生没年/?〜210年ごろ

子/程咨

武 勇

8

 

 

戦 術

8

 

 

知 略

7

 

 

 

カリスマ

7

  

 

 

人 望

8

 

 

外 交

5

 

 

 

 

 

内 政

6

 

 

 

 

 

コーエー「三國志」シリーズに見る程普の能力値変遷
陸戦指揮、水戦指揮はIIIのみ、
運勢はI のみの設定。赤字はシリーズ中の最高値

 

知力
武力
魅力
政治力
統率力
陸戦
指揮
水戦
指揮
運勢
I
84
41
76
 
 
 
 
95
II
84
60
87
 
 
 
 
 
III
81
69
85
70
 
73
82
 
IV
82
68
86
72
85
 
 
 
V
80
80
85
73
 
 
 
 
VI
76
64
83
76
81
 
 
 
VII
71
84
81
70

 

 

 

 

VIII
76
86
86
75

 

 

 

 

IX
78
84
 
76
83

 

 

 

X
83
78
85
73
85
 
 
 

初代では、なぜか軍師一歩手前の文官のような能力だったが次第に武力が上昇し、バランスのとれた「使える男」になっている。1 は孫堅や孫策が死ぬと、コンピュータはなぜかこの人に跡を継がせることが多かった。

程 普 (ていふ)

呉の重鎮として名高い人物だが、幽州北平郡という北方の出身。

いつから江東に住んでいたのか不明だが、孫堅には旗揚げに付き従っていたようで、黄巾党との戦いで手柄をあげ、董卓軍との戦い(陽人の戦い)にも参加している。体のあちこちに傷を負いながらも奮戦を続けた。

孫堅の死後、そのまま孫策に仕え、江東制覇に向けての数々の戦いで功績を立てる。やがて会稽まで攻略した孫策は、程普を呉郡の都尉に任命し、銭唐に役所を置かせるなど厚遇する。新勢力である孫策に対して各地で反乱が起きるが、程普はこれら反乱軍をことごとく討伐することに成功している。

孫策が丹陽郡で祖郎の大軍に囲まれたとき、程普は一人の騎兵を連れて突撃をかけ、包囲網を切り崩して救援に成功した。孫策は盪寇中郎将の官職と、零陵太守の地位を程普に与えている。同僚の黄蓋や韓当が、当時は校尉止まりだったことを考えると、程普が相当に高く評価されていたかがわかる。

孫策が死ぬと孫権に仕え、彼のもとでも引き続いて孫呉の領地拡大と安定に力を尽くす。程普は父の代から仕えていた最古参、最年長という大ベテランであったので、諸将からは「程公」と呼ばれ、尊敬されていた。一方で、周瑜のことは見下し、馬鹿にしたこともあったようだが、周瑜はそれを気に掛けず、程普に対して礼を尽くしたので、彼も周瑜のことを認めるようになったという。

孫権が跡を継いだとき、周瑜は26歳だったが、程普は生年が不明なので何歳だったかは分からない。孫堅(155年生まれ)と同世代だとすれば、少なくとも20歳は年上だったとみられる。周瑜も孫権も、程普からみれば息子のような存在だったのだろう。

208年「赤壁の戦い」では、その周瑜と完全に和解し、彼の副将的な立場となって補佐し、曹操軍の撃退に一役買っている。さらに曹仁を追って南郡の攻略にも成功し、程普はこれらの功績で、裨将軍・江夏太守を任じられた。

その後、荊州が劉備の領地となったので、程普は再び戻って江夏を治めることとなり、 盪寇将軍に昇進したが、このころに体調を崩し、病にかかって世を去ってしまった。

死因や正確な死亡時期は書かれていないが、裴松之の注によれば、程普は叛逆者数百人を処刑した時、彼らを火の中へ投げさせるという 残忍な方法で殺したためか、その日の癩病(らいびょう・ハンセン病)を患い、症状があらわれてから百日余りで死去したという。

やや迷信じみた逸話が伝えられているのは、名将ではあるが残忍な一面も持っていたということだろうか。そういえば、日本の戦国武将・大谷吉継もハンセン病を患っていたことが知られる。

『演義』では、洛陽で孫堅が玉璽を見つけたとき、「これは伝国の玉璽」と鑑定する学識を持っていたり、戦場では「鉄脊蛇矛」という張飛の武器に似た得物を使いこなすという、文武両道に優れた名将として活躍し、孫呉の武将の中ではかなりキャラが立っている。ただ、死去の描写もなく、正史同様、いつの間にか退場してしまうのが残念だ。

※文章の著作権は哲舟に、一部借用・引用画像の著作権は作者および各メーカーに帰属します。無断転載を堅くお断りします/管理人・哲舟


 程普の一騎討ち勝敗表
西暦・場所
相手(所属)
結果
決まり手

190 シ水関

VS胡軫(董卓軍)

数合打ち合って、喉を突き通す

192 樊城

VS呂公(劉表軍)

数合せずに馬から突き落す

197 江東

VS太史慈(劉ヨウ軍)

30合打ち合い、戦いたけなわとなった頃、退き鐘がなったので退却

★通算3戦2勝0敗1引き分け



コーエー「三國志」シリーズに見る肖像変遷(左より1〜10の順に並んでいます)

(寸評)随分と時期ごとにイメージの変化が激しい人である。1〜2は知将の風貌で、紺色の兜がカッコよかった。意外に武力が低く、能力的には文官みたいな評価だったのが懐かしい。3〜4は暗黒時代といって良いだろう。4は極端な悪役面で少しかわいそうだが、呉の重鎮ともいうべき存在感はあった。5〜6は能力もグンとアップして、一転して名将の佇まいに変わる。7〜8も珍しくなかなか良い感じである。しかし、9〜10特徴が薄れ、誰だかよくわからなくなってしまった。

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ギャラリー

作画/
祖茂

 


三国志ファンが斬る! 過去に皆さんから寄せられた書き込み、投稿です。

六波羅文乃 殿

イメージ的には黄蓋の方が年寄りっぽいけど、実は彼が最年長。
何で呉の武官はマイナー感があるのでしょうか。

哲坊

う〜む、都督が目立ちすぎるのやも、しれませんな。

新荘剛史 殿

孫堅四天王の一人。東呉の武の重鎮。
周瑜に嫉妬する辺りがなんかかわいいぞ。

崔州平 殿

でも後に仲良くなる当たり、やはり英雄は英雄を知る、
ということでしょうか。

劉表 殿

刀傷が絶えなかったと言うから、
いわゆる斬込み隊長ではないでしょうか。
「三国志VI」の知力と武力は絶対逆のほうがいいでしょう。

香香 殿

改めていうまでもありませんが…
孫堅四天王のゲーム能力値は低いですね。
特に祖茂とか・・・。

香香 殿

はるか北方・右北平から、孫家に付き従って南へ・・・。
忠義の将ですね!

新荘剛史 殿

時に言葉の壁は打ち破れたのであろうか…。

香香 殿

そういえば、四天王、みんな出身がバラバラですね。
官職に就いている人物ならば、中央(司州)の言葉が
多少は話せたかもしれませんね。根拠はないんだけど。

哲坊

ゲームの「三國志I」では文官のような能力だったのが
懐かしいですな。しかし、呉の人は一騎討ちの記録が少ない。寂しい。

沮授@tRTK

横山三国志では、孫堅の代から登場し、「若い程普」の姿が印象に残る。
「光栄三国志1」で文官扱いだったのは、おそらく孫堅の劉表攻めの際に、私怨で攻めることを孫静(孫堅末弟)と共に反対した場面がクローズアップされた為かも…。(漫画でもその時には文官のような服装だったし。) (02.9.1)

 

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