祖茂殿作画

劉 禅(りゅうぜん)

字(あざな)/公嗣(こうし) 生没年/207〜271年(64才)

蜀漢帝国二代皇帝(在位223〜263年)


明暗不詳の二代目

劉備の荊州潜伏時代、甘夫人との間にもうけた子。劉備の跡を継いで2代目蜀帝となった。魏が攻め込んでくると、各地でまだ戦っている将兵を見捨てて降伏。のち、魏領・洛陽に軟禁され、「蜀に居た頃より楽しい」といい、安穏な余生を過ごした。父・劉備は劉禅の才を買ってはいなかったようで、死ぬときに「劉禅が補佐するに値しない場合は君が」と後事を諸葛亮に託している。

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 能力検証

武 勇

1

 
 
 

 

 
 
 
 

 

皇帝という立場のせいもあるが、実戦経験は皆無。蜀存亡の際にも自らは鎧も着ず、武器も取らず降伏

本人の取った行動に対する記述が少なく、自分で国政を判断したのかどうかは疑問

蜀滅亡後、洛陽で嘆くでもなく安穏と暮らす姿に、人々はあきれかえった。しかし、治世中大きな内乱が起こらなかったのは評価すべき点か

内政は宦官に任せきりで、滅亡を招いたともいえるが、蜀の命脈を40年保たせたのは事実

戦 術

1

 
 
 
 
 

 

 

 

 

知 略

 

4 

 
 
 

 

 

 

カリスマ

7

 

 

 

人 望

6

 
 

 

 

外 交

2

 

 
 

 

 

 

 

 

内 政

5

 

 

 

 

 

劉禅という男の真実

「阿呆」の語源にもなったという劉禅。魏が攻め込んでくると、各地で戦う将兵を見捨てて降伏したことから、三国時代の幕を閉じた張本人であり、暗君として後世にまで語り継がれてきた。だが、近年では、民を戦禍に巻き込まず、降伏したのは正しかったと評価する声も多くなった。確かに客観的に見れば、なんだかんだで孔明の死後40年も国を保っているから、為政者としては申しぶんない人物だったのかもしれない。

捕虜として軟禁生活中の「蜀よりここが楽しい」発言にしても、戦国武将・石田三成のように、生き延びるために計算されたものだったという見方もある。何より、正史には彼が暗愚だったという記述も見当たらない。同時に、優秀だったという記述もないので、彼の評価はこの先も長く平行線を辿ることになりそうだ。まあ、もしも彼が優れた人格者であったならば、自身が蜀滅亡のA級戦犯となることで、演義を中心とした後世の三国志ファン・蜀ファンの気が済むのなら「それでよし」と、墓の下でほくそ笑んでいるかもしれない。(哲坊)


三国志ファンが斬る!劉禅評2
これ以前の投稿は、こちらにまとめました。

影王 殿

劉禅にとって姜維は頭痛の種ですね。降伏前は国が疲弊してきているのに戦争を起こし、降伏後は蜀を再建させようと軍事クーデターを起そうとする。劉禅には、
「おいおい、勘弁してくれよ」って感じでしょうね。
姜維からすれば、「何勝手に降伏してんの?この意気地なし」
となるでしょうけどね。(03.11.30)

シーガル・フライ・フリー 殿

蜀において宦官が幅を利かせた理由についてですが、蜀は、漢王朝の正統を自称していたため、制度もほぼ後漢のものを踏襲しました。そのため、宦官制度についてもほぼ後漢と同じもので、中常侍や中書令など宦官にとって重要な役職はそのままでした。劉禅が、宦官が付け入り易い暗君であったことは否定しませんが、宦官が幅を利かせたのはこのせいでもあると思います。

一方、呉では、宦官の権力を後漢に比べて大幅に制限していました。にも関わらず宦官の勢力が強大でした。よって、短絡的ではありますが、少なくとも劉禅>孫晧だったのではないかと思います。(03.11.30)

鮫島 殿

無駄な血を流さず蜀の民衆を救ったという見方も出来、彼の行動は正しいとも取れますが、正しい事が必ず評価されるとは限らないですね。実際内政面でも特筆する事もないようですし、国を滅ぼした責任者という立場上自分は擁護できません。(03.11.30)

第四者 殿

そもそも、劉備の征服行動の大義名分が「漢帝国再興」だったから漢と同じように政治腐敗をおこした律義な奴。そういう観点に立てば、ヤツも立派?(苦笑)
「劉備美化」の最大の犠牲者は、魏でも呉でもなく、禅だと思う。(03.11.30)

酔狂 殿

平時なら普通の皇帝として名のみが残ったんでしょうがネェ
何時滅ぼされてもおかしくない国が生き延び彼の彼の代で潰れただけデス。政治も悪く無かったかもしれないし、滅亡後のコメントもこころからの物では無いかもしれない。推測の枠は出ないが、国は40年もったし、劉備の志を第一とするはずの孔明もとって変わらなかった事は事実。演義で暗君に仕立て上げられただけでは?(03.11.30)

泰 殿

劉禅は馬鹿ではないと思う。史上最大のアホは胡亥だと思う。何故ならあの大帝国をたったの2年で潰してしまったから。たった2年で。せめて10年は保てよ!!って感じですね・・・・・・・・。それに比べたら劉禅は立派だと思います。あの小国・蜀を40年も保ったからなぁ。其れなのに皆からは馬鹿アホと言われるんでしょうねぇ。(03.12.30)

kei 殿

いきなりゲームの「三國志9」から、三国志の世界に足を踏み入れた私から見れば、あの能力値は、まさに衝撃でした。後になって吉川三国志を買い、読んだのですが、彼が登場するのが一番楽しみでもありました。(04.2.19)

雑兵 殿

酔狂殿の意見に賛成です。演義は徹底して孔明をヒーローに仕立ててます。周瑜、魯粛なんてそのいい例です。劉禅の場合も『暗愚な君主に仕えて亡き先君の夢のために命をかけた名軍師』なんて方がかっこいいからこうなったのではないかと思います。ちなみに私、こういった考えを持つようになって『アンチ孔明』になりました。(04.3.9)

鉄観音 殿

自分も劉禅が演義の誇張で被害を被った者の1人だという意見には賛成です。確かに特筆すべき点はなかったでしょうが、逆に晩年に宦官に付け入られたこと以外に特に問題点もなかったし。

洛陽での、今の方が楽しいから蜀のことは思い出さないとの発言も、姜維がああいうことをした後だし、魏に臣従した元蜀の臣らが(劉禅を担ぎ上げて蜀を再興するなどの)二心を疑われて粛正されないようにするため、自分にその気はないことを示す発言なんじゃないかと思ってます。魏への降伏も劉璋あたりのように、民のことを思っての降伏かもしれないし。天の邪鬼と思われてもいいんです、どうもこいつが不憫でならないので(笑)。(04.4.13)

こおす 殿

正史の伝でこれほど自分の意思がない人間はいないと思います。もし一般の人だったらちょっと気の弱い人の良いおっさんみたいな感じでしょう。生まれた境遇に同情したいですが、皇帝の責任を果たしてないので責められても仕方がないと思います。(でも孫晧よりか数倍まし) (04.5.31)

青兎馬 殿

この人の場合、勝ち目が無い戦で民や都のために降伏したのではなく、ただ単に自分の命は助かるといわれたから降伏したんじゃないんかな? 孔明死後何十年か国を保てたのは、逆にこの人が何もできない人だからのような気がする。恨みを買うようなことをするとも思えないしそういったことが国を長く保てた理由な気がする。

酒と女に溺れ、劉備や孔明たちが必死で築き上げたものをいとも簡単に捨てたのは事実。民や都を大事にするのであれば降伏に追い詰められる前にもっともっと必死になるでしょ。三国志9のような能力とは言えないし、嫌いでもないが…。国は長く保ててもこの先も変わらずアホ皇帝劉禅。それがお似合いと私は思う。天才と馬鹿は紙一重、ある意味すごいことです。(04.5.31)

諸葛菌 殿

名君か?と言われると「・・・」という感じですが、だからと言って阿呆の代名詞になるほどの無能か?といわれても「・・・」という感じです。少なくとも40年は不安定極まりない蜀を保っていますし・・・それに諸葛亮の死後に、諸葛亮の事を罵った李バクという人物を怒って処刑しています。

本当に政治に興味ナシのチャランポランなおバカちゃんなら、孔明を罵しられたところで別に大して気にしないのでは?と思うのです(全くの下らない推測に過ぎませんが・・・)それに彼が此処までクソミソに言われるのは、やはり彼が滅ぼしてしまったのが「蜀」だからなのではないでしょうか。劉備、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲・・・といったみんなのアイドル達が辛苦の末に建てた蜀をあっさりと滅ぼしてしまったのですから、罵倒されても仕方がないと思います。

しかし必要以上に貶めてられてしまうのも些かどうか・・・と。もし三国時代に行く事が出来たら、劉禅という人間を直にこの目で見てみたいですねぇ・・・でも実の父親に地面に叩きつけられて「てめぇのせいで大切な趙雲が死ぬとこだったじゃねぇか!!」なんて言われちゃあ・・・・・・普通に気の毒だと思いませんか?(苦笑) (04.7.19)

ソロネ 殿

色々現地住民にも、また日本人にさえも暗君暗君と騒がれる劉禅(後主)ですが、本当のところはまだまだましな皇帝だったのではないか?と私は考えるわけですね。というのは、この時代の残る滅んだ魏、呉王朝とを比較した結果の考えです。魏王朝では、最終的に司馬一族が実権を振るい続け、皇帝の威厳こそ無に等しいものとなりました。潰れる以前に信望が薄くなっていたのは明らかです。

そして、呉王朝でも、後継争いが勃発したために、結局折角整っていた国力がほとんど無駄になり、衰退していく原因を作っていました。ところが、蜀では、そのような内紛があったという記述は無く、特に穏やかな最後を送っています。こうした意味では、劉禅には一応信望深いものがあったために国を経営する事も辛うじて可能であった事が分かります。劉禅は、能力こそ無に等しい皇帝ですが、魏や呉のような自滅国家で無い事も同時に劉禅の、数字で表せない能力を示しているものと思います。(04.8.18)

劉淵 殿

徳川慶喜公も私が子供の頃まで(20年くらい前)はボロカスに言われていたものです。ただ慶喜公の場合は近代史の方の為、歴史的事実から人物像を追って真なる評価をするのも比較的易しかったのですが、劉禅様となると1800年くらい前の方ですからねぇ・・・私的には長嶋一茂氏と彼が重なってなりません(笑) (04.8.18)

哲坊

徳川慶喜は、今でも評価は人によって分かれる所だと思います。その点も劉禅と似ているのではないでしょうか。確かに劉禅の場合はもはや「伝説」のレベルでしか判断基準がないので、評価するのが本当に難しいですな。(04.8.18)

価格破壊の人 殿

まあ、演義では劉備や孔明を美化するために相当蜀にフィルター張ってますしね…私は禅はそれほどバカ殿ではなかったと思いますよ?誇りのために命をかけるのが当然の時代に即行で降伏すんのは問題かもしれませんけど、君主としてはそれが一番懸命だった気もしますし…蒼天航路のあとがきを読んでからこの人が気の毒で仕方有りません。 (04.8.18)

はげ 殿

名君というほどの人物ではなかったでしょうが、暗君でもないでしょう。本当に暗君ならば諸葛亮存命中に国を潰していたはずです。彼の行動のベクトルは保身に向いていたのは確かですが、それは別に責められる筋合いにはないでしょう。よくも悪くも彼は凡人だったのです。しかし凡人だったからこそ蜀は40年間の寿命を手に入れられたと思います。

中途半端に利口だったら、諸葛亮の言いなりなど我慢できず自分であれこれやりたがって家中の和を乱すでしょうから。武田勝頼などがいい例ですね。結局儒教フィルターのせいで彼は親の理想を投げ出した不孝ものとして断罪されているのだと思います。現代日本人的な価値観でいわせてもらうならば無用な血を流すことを避けた彼は、イラクのサダムなどよりはましな人間でしょうが、儒教的な道徳観でいえばたとえ国民全員が玉砕しようと徹底的抗戦をするべきだということになります。結局彼に対する評価は基本となる価値観で大きく違うのではないでしょうか。長い間儒教的道徳に縛られてきた本場中国で彼が蛇蝎のごとく忌み嫌われるのは当然ともいえます。(04.10.3)

金 殿

僕は初めは曹操のファンだった。彼のような万能な人物になれればいいなと思っていた。就職してから自分の本当の実力をおもいしらされたのでさんざん苦労して生きた劉備の生き方に共感をもつようになった。つぎに転職してやはり自分は無能だったということがわかった。無能なりに上手な生き方ができないものかと。劉禅の生き方を参考にしてみます。(04.10.3)

ゲオルグ 殿

私としては、別に禅君は暗愚じゃなかったと思うんですが…。実際に暗君と言われている理由としては、「自分で政治的行動をしていなかった」と言うことだと思います。ただ、それは劉備とて同じで、「無為」と言う、臣下の能力を100%発揮させる一種の帝王学。同じ政策を行ったのに、劉禅だけボロクソ言われるのは、彼の元に優れた人材が居なかった為でしょう。無為を行っても、配下に優秀な人材が居なければ、意味がないわけですし…^^;最後の降伏は、評価されるべきだと思いますよ。例年の姜維による戦で国力は疲弊の極みに達して居たわけで、あれ以上抵抗したところで無駄に血が流れるだけでしょう。劉禅が姜維の北伐を辞めさせる事が出来れば、歴史は変わっていたはず。やはり劉禅は劉備の血を引いていた、と。(04.10.3)

韋孝寛 殿

よく考えれば現代日本人的な思考でも、劉禅の降伏は評価に値しないと思います。だって漢王朝復興のために民と将兵に苦難を強いていた当の旗頭が「蜀なんて知ったこっちゃない」なんていってるの聞いたら、「俺達は何のために血を流したんだ!」と将兵や蜀の民は思うんじゃないでしょうか?

これが「国家の敗亡は朕の不徳の故。兵や民には迷惑を掛けた」のような言動であれば、恐らく評価は全く違ったものになったでしょう。亡国の責も無論ありますが、それ以上にそういった配慮とか現実感覚の欠如が「馬鹿殿様」評価の原因ではないでしょうか?ちなみに正史でも諸葛亮の死後、国中から美人を集めて自分の後宮を満たそうとし、臣下に突っぱねられた逸話を持つお方です。(04.11.1)

スダダス 殿

この人物を語ると、「無能」の基準についての話になりますね。劉禅が「バカ武将」として、ゲーム内での能力の壊滅的低さは絶対に変わってはいけないと思います。彼以上の能力低い人物は、普通は長生きできませんので。劉禅にキョウイのような才能があったら、北伐強行して、玉砕して終わるか、家臣に裏切られたでしょう。無能な皇帝だったからこそ、かえって蜀は長持ちしたと思います。

隋のヨウ帝(本当はヨウダイなんて読まないのに、隋を滅ぼしたために読み方を変えさせられてしまった)なんかに比べれば、まだいいのでは?最後に一言ギャグを。劉禅がダメになったのは、長坂で親父に投げられて頭打ったのが原因だと思います(笑)。(04.11.1)

哲坊

その前に、趙雲があまり馬を飛ばし過ぎるので、頭をシェイク(揺ら)され過ぎたというのもあるのかも…(笑)。(04.11.1)

伯拓 殿

結構彼に対して好意的な評価が目立っているようですが、中国電視台のドラマでの彼は官渡の時の袁紹と並んで見ていてイライラする2大キャラでした。思わずブラウン管に向かって「コラー!」と叱りつけたくなるような(笑)。あと、僕は趣味で勝手に武将の能力値を自分で付けているのですが、確かに彼は「数字で評価するのが嫌になる人物」でした(笑)(04.11.1)

鳳韶 殿

諸葛亮死後、劉備の名声を諸葛亮の名声が上回ることを恐れ、成都に孔明の廟を建てるのを渋ったと言うので、それなりの政治的能力はあったと思います。 (05.10.12)

伯和 殿

あの蜀の状況で、彼にどうしろというのだろう。降伏以外の道は無かった。あの人材不足の蜀では仮に彼が相当な能力の持ち主だったとしても一人ではどうしようもなかっただろう。彼はみのほどを知っていたのだと思う。玉砕しなかったことで多くの民の命も救えたし、劉家も絶えさせずに済んだ。みのほどを知っている彼に出来る数少ない選択枝の一つだったと思う。(彼、彼ってちょっとなれなれしいですね)

だとしてもゲームの能力はとことん低くするべき。その方が彼のキャラが立つ。魅力以外オールゼロでも良い。中途半端に使えないキャラよりも潔くてよい。 (05.1.12)

ぴえ〜る 殿

コーエー三国志での評価もさることながら、劉備、関羽、張飛らが長い流浪の果てに築いた国である蜀を滅ぼした(滅ぼされた)がために暗君とされてしまっている劉禅。しかし実際はそうでもなかったようです。若い頃は馬に乗って的を射抜いていたりしたようですし、諸葛亮を罵った人物を処罰したり、蒋[王宛]、費[ネ’韋]、などを起用したりしているところを見るとまったく無能ではありません。余談ですが黄皓もただ劉禅をたぶらかした奴ではなかったようです。

そして蜀の滅亡直前ですが、降伏は仕方がなかったものだと思います。成都には僅かな兵しか残っておらず、また無駄な抵抗は成都を火の海にもしかねません。ショウ周に従って降伏したのは正しい判断だと思いますね。なのでコーエー三国志のような平民以下のような能力ではないでしょう。小国の蜀を40年も保ったのは凡人、いやそれ以上でしょう。(名君主とはいえませんが・・・)英雄の国、蜀の最後の皇帝となったがために現代で酷い扱いを受けている劉禅。「治世の名君、乱世の凡君」というのは劉禅にピッタリだと思いませんか・・・?(05.3.18)

潮風 殿

最初私が読んだのは横山さんの三国志だけに、当時は「この意気地なし」とか思ったものですが、今では降伏したから無能、ということであれば逆に劉禅を擁護します。劉禅の場合、降伏したのを叩かれるのは「蜀」という演義の主役国を滅亡させたからだけです。

何も降伏した群雄は劉禅だけでなく、無数にいるはずですから。だから降伏したという事で劉禅がアホと言われるのはおかしい。それなら劉[王章]も劉[王宗]も張魯もアホといわれるはずです。彼らの下にいた将兵の苦労が水の泡になる点では一緒なのですから。ただ、やはり宦官に権力を持たせた点では評価できないですね。この点では無能呼ばわりされても仕方は無いです。(05.3.18)

コタツ 殿

三国志IXでは笑ってしまった。彼の伝説を塗り替える事が出来る人は居るのだろうか(いや、居ない)。ところで、曹丕は大した成果は挙げれなかったし、孫権は天下を獲るつもりは無かったみたいだし、如何してこうも後継者は親程優秀では無かったのだろうか(ハングリー精神が足りないのかな)。(05.3.18)

ケンドー・バサラ 殿

ゲームの近作の能力って・・・・、もしかして、人形劇三国志の「紳々」、「竜々」より下だったりして・・・・・いや有りうるな・・・・・。(笑) (05.3.18)

国産中学 殿

バカとかアホと言われている劉禅さんですが、自分は好きです。酒と女と遊びの毎日だったそうですが、なぜか、長生きしてます。ただ、一度でよかったから魏と戦ってほしかった。 (05.3.18)

哲学する胃 殿

北宋も最後は蜀と似たような道を歩んでますよね。シンカイが劉禅で姜維が岳飛。中国の風潮では演義で辱められるのも仕方ないと思いますが、ゲームでの能力は多少見直すべきだと思います。このままじゃ如何せん…(05.3.18)

韋孝寛 殿

どうも劉禅擁護派の方の主張にはダブルスタンダードが多い気がしますね。北伐を認めて国家を疲弊させた点は省いて、蜀の国力では降伏は妥当、民衆のために良かった。という結論。劉禅が民衆を思ったという結論を持ってきたかったら、費イのように北伐自体を抑制したという実績が必要では?また黄皓の進言を採用して援軍を送らず、あの事態に至ったのも故意的に無視されてるような・・・。しかも40年蜀を保ったといいますが、諸葛亮の残した補佐役が消えてから10年、黄皓を重用しだしてからは僅か2年で滅亡してます。あれほど暴虐の限りを尽くした孫皓ですら16年も保ったのに。(05.3.18)

周不義 殿

劉禅は周りの取り巻きが優秀なうちは名君でしたが、晩年は周りの取り巻きが悪かったせいもあり暗愚となっていったのだと思います。陳寿は、劉禅を評して白は何色にも変わることができ、劉禅はまさしくその白色であった。といっていますが、まったくそのとおりだと思います。蜀が滅亡した原因は彼だけではないのです。これらのことから劉禅はもっと評価されてもいいと思います。あ、でもゲームでは演義ベースでしたね・・・。ならしょうがないか。(05.4.23)

猫背 殿

劉禅は暗愚の代名詞になるほどの暗君では無いと私は思います。呉が滅びたときに皇帝をしていた孫皓にいたっては近臣・民衆お構いなしに殺しています。その理由がうさばらしなのです。ですが劉禅は自身が積極的に民を苦しめたり、流血沙汰を起こしたことはないのです。それに孔明を神のごとき智謀にもかかわらず、無念にも目的を果たせなかった悲劇の英雄として引き立てるには孔明の足を引っ張った、迷惑な男が必要となってくる。たとえば、幼少期に父親から地面に叩き付けられて頭がオカシクなってしまっているような人が……。(笑)そこで暗君としての役回りを劉禅が目をつけられたと私は思います^^; 

それに劉禅は暗愚どころか、まだマシな君主です。17歳で即位してから、41年間も皇帝をつとめた在位期間は、中国歴代でも4位を誇ります。彼我戦力差で2:27とも言われ、10倍以上も人口・生産力・兵力に開きがある強国 魏に戦争をふっかける困った丞相はいるわ(孔明ファンの方申し訳ありません)。たとえどんなに一生懸命 皇帝の仕事を頑張っても報われやしない。ことあるごとに偉大なる父に比べられるのが関の山。それなのに良く41年間持ちましたよね。

孔明の死後は蒋エン、費イ、董允といった有能な家臣の言うことをよく聞き、実に36年間は真面目に皇帝をしていた劉禅。確かに、董允が死んだ後の5年間は宦官に権力を与えてしまっていますが、それとて民衆を苦しめたというわけでもない。敵が首都に攻めこんできたときには無駄な抵抗をあきらめ、降伏。国が滅びた後は余計な意地を張らず、敵国の宴席で場の笑いを取っています。普通の人の、ごくごく普通の対応だと思います。いや、むしろ皇帝という絶大な権力と責任を持ちつつも、それを悪い方向に行使しなかったあたり、まだマシな君主と言っていいのではないでしょうか?(05.4.23)

珍寿 殿

「蜀は恋しくない」発言は猫かぶりという見方で肯定できなくもないですが、家臣を痴話で刑死させてるのは弁護の仕様もないですね。統治能力はシンボルとしての皇帝なのであまり関係なかったように思えます。孫コウのような残酷話は上記以外にはないのが救いです。内政に人を得、豪族の利害も蜀帝国と一致し、何より僻地すぎて内乱に悩む魏も総力で侵攻する余力やメリットがなかった。そこが30年続いたミソではないかと思います。(05.7.11)

dadaver4 殿

劉禅は無能だったかと言えば、多分無能ではなかったと思う。所謂「凡庸」な人間であって、後に言われる無能、暗愚の代名詞になるような、駄目人間ではなかったのだと思います。では、何故、彼は、後の世で、無能、暗愚の代名詞のような扱いを受けたのかと言うと、私は、その背後には、蜀の掲げた旗印「漢朝の復興」と言う、儒教的正義が背後にあったのではないか?と思っています。蜀滅亡の原因のひとつとして、上に立つ劉禅の責任は当然あると思う。だがそれ以外にも、当然いろんな原因があると思う。

十倍以上の国力を誇る魏にしょっちゅう戦争を仕掛け、悪戯に国力を消耗した軍人達(姜維を初めとする人々(個人的観念では、含む孔明))その軍人達の暴走を止められなかった、内政担当官。無茶な旗印を掲げ、それを国是としてしまった創始者達(劉備とか、あそこいらへん)等等。何かが起ったとき、その背後に当然ある、いろんな原因が合わさり、積み重なり、累積されて、蜀も滅んだのである。大体、蜀の国力で、魏を滅ぼす、時代に合わなくなっていた漢を復興すること事態が最初から無茶な事だったのだから。蜀の滅亡は、歴史的には遅かれ早かれ、いずれ訪れる必然的な出来事だったはずである。

が、普通に「蜀滅亡の原因」、儒教的に見れば、「正義蜀が悪の魏に敗れてしまった原因」を、突き止めようとすれば、儒教的には、正義でいなければならない人達(劉備、孔明、関羽、姜維等等)の責任も問わなければならなくなる。が、それは、儒教的にはできた事ではない。そこで、スケープゴートとして用いられたのが、劉禅だったのではないか?

周りの正義の人たちは、大変良く頑張ったが、上の劉禅がアレだったが為に、残念ながら、正義の蜀は、悪の魏に滅ぼされてしまった。もし劉禅が有能だったら、悪の魏を滅ぼせていたのかもしれないのに・・・・・・・・・とするために。凡庸ゆえ、廃嫡も位を追われることも無く、凡庸ゆえ、善悪、何も成さなかった。ゆえに、スケープゴートにもしやすかった。そんな所かな?と思っています。「上に立つものの凡庸は、無能よりも悪い時がある」と言う言葉もありますが、案外劉禅は、それを地で行った人だったのかもしれない。(05.7.11)

hogehoge 殿

劉禅が本当に無能だったら、諸葛亮とか趙雲とか先代から幅をきかせている家臣たちを左遷して、自分好みの部下を丞相にして暴政を敷いていると思う。北伐の際の判断ミスも誇大広告されすぎ、ほかの英雄だって判断ミスの10回や20回くらいやっている。英雄ではないけれど優秀な部下の言うことを取り上げて着実に実行する能力はあったと思う。(05.11.12)

コミングす〜ん 殿

私は、劉禅は、多分有能とも、無能ともいえず、紙一重な感じです。まあ、劉備や諸葛亮、それに五虎将軍たちと将兵たちの命かけて築いた国をあっさり降伏し、おまけに司馬昭の質問に「蜀は恋しくない」と言ってるから、嫌われ者と言われてもしょうがないような…でも、諸葛亮が健在だった時はそれなりに頑張ってたみたいだし、諸葛亮は、彼を支える支柱にもなってるような気がします。「支えを失うと家が建たない」のことばの如く、諸葛亮亡き後は、酒と女に溺れ、酒池肉林の世界を繰り広げて…と、随分荒い感じがします。姜維将軍たちが剣閣で頑張ってるのに対し、遊びほうけてるのも嫌な感じがします。でも、成都に魏軍が攻めてきたので、降伏しなければならなかった。私は好きともいい難く、嫌い…ってわけでもなく、でも若干嫌いのほうに傾いてるかなあ。(05.11.12)

創影 殿

この方、三国志史上最も自分の能力を理解していた処世術の天才という評価もありますが・・・。皇帝として有能か無能かと言えば無能の部類であるとは思います。(上に立つ者が政治に無頓着なのは犯罪です)が、一個人としては64歳まで生き延び、子孫も残しています。子孫を残せなかった諸葛亮よりは個人として有能だったと思います。(05.11.12)

lee 殿

馬鹿殿の代名詞の彼ですが養子の劉封よりは結果的に後継者としてはよかったのかもしれません、孔明も劉備亡き後に後継ぎに劉封がなったらコントロールできないという理由で斬る事を劉備に進言してますし、劉禅は劉備の遺言どおり孔明に全権を任せています。(罪もないのに策略にはまって陣中の孔明を成都に呼び戻したことは一回あったなー 怒)

陳寿も劉禅のことを白い布のような性格といっていますから周りに染まりやすい性格だったのでしょう。生まれた時代が時代だけに彼は凡人皇帝として名を残すにいたったと思います。しかし正史の文献を見るにあと1ケ月城門を開かずに持ちこたえていれば歴史は変わっていたと思います。あの時トウガイはギリギリな状態でしたから。(05.11.12)

公徳 殿

劉邦と項羽が覇を競い合っている時代、劉邦幕舎には曹参という人物がいました。曹操の先祖(正確には曹操の祖父の先祖ですが)にあたる彼は、前漢の二代目丞相に就任しています。初代は言わずと知れた漢三傑の簫何です。簫何の死後、曹参が行った政治は何も変えない事でした。彼は「自分の才能は簫何には及ばない。簫何の行った政策を改ざんすることははむしろ害になり、黙って制度を踏襲するのが上策である」という信念を持っていました。彼は名宰相として後世に名を残しています。

話が少し脱線しましたが、諸葛亮は当時の大政治家です。劉禅を含め彼の後継者が際立った政策を実行しなかったのは、漢復興を大前提とする蜀において、そのような背景があったのではないでしょうか? 私の意見としては、劉禅は名君ではなかったと思います。しかし、暗君だと言うのは言いすぎではないかと思います。確かに降伏後の彼の行動は褒められたモノではないですし、そこの部分は男として三国志ファンの一人として腹が立ちますが、それだけで決め付ける事は出来ない気がします。

もともと戦乱を経験した事がない地とはいえ、後世のような評価の君主のもと40年近く内乱が起こらないという事がありえるのでしょうか?諸葛亮存命中にさえ南蛮で反乱が起こったというのに。諸葛亮が南蛮を帰順させたとはいえ、諸葛亮死後もこのような反乱が起きなかった事を考えても劉禅は名君ではないにしろ、最悪の暗愚皇帝ではなかったのではないかと思います。(05.11.12)

香 殿

劉禅と言えば誰もが知ってる、「蜀のことなど思い出しもしません」発言。でも、案外「もっと早く郤正を認めていれば」と悔やんだという話もあることは知られていない気がします。しかも悔やんだ理由は郤正がビシバシ諫言してくれたおかげで落ち度なく振る舞うことができたから。前者と後者、果たしてどちらが劉禅の真情だったのでしょうか。ある意味、三国志で一番興味深い人物ではありますね。(05.12.26)

合肥新城建設員 殿

一言彼に言うと、「大馬鹿野郎」です。多くの血と汗の結晶で親父達が作り上げた国を捨て(民を守るためにと言われていますが果たして本当かどうか・・)、挙句に魏での軟禁生活中に「魏にいる方がずっと良い」と吐き捨てたことに私は怒りを覚えます。彼は長生きしたと伝えられていますが、あちらの世界に召されてからは、劉備をはじめ蜀の面々に「大馬鹿野郎」とさぞ厳しいお説教を受けたことでしょう。(06.8.16)

minarai 殿

暗愚?名君?どちらつかずですね…調べれば調べるほど分からなくなってきます。もういっそのことどちらか白黒はっきりするまでコーエーは劉禅の能力値をすべて50ぐらいにすればいいかと(笑)。それでも孔明死後蜀を30年もたせたのは、費イ、蒋エンなど優秀な官僚の進言を受け入れる度量が劉禅にあったからではないでしょうか。もし当時の君主が孫皓なら確実に費イ、蒋エンは首が飛んでますし…劉禅は穏和で平和好きな性格、という感じで落ち着きそうです。(06.8.16)

デンホー大臣

2、3年前は劉禅が嫌いでたまらなかったのですが・・・(懐)。中国と言う国は、どうも「国のために命を賭けて戦い、死んだ」関羽、諸葛亮、岳飛、といった将軍を英雄と見なし、代わりに劉禅、秦カイといった「国を捨てた」男をダメ男と見なす傾向があるようです。その事は史跡(武侯祠、岳飛像など)にも見られます。中国の感情によって悪い扱いになった人といえるでしょう。もし欧米などの違う国の君主なら「現実的な君主」であったかもしれません。しかし、酒にふけり、美女と戯れ、巫女を信じたという描写がどうも本当のように思えてならないのは何故でしょうか。なお、張飛の娘は二人ともこの劉禅の后(恐らく美人)なので、親の張飛はかなりの美男だったと言う説があります。(06.8.16)

芋ペンギン 殿

「名君でもなく、暗君・暴君でもない」「無能・暗愚ではなく、有能・聡明でもない」……良くも悪くも凡庸、というのが私の劉禅に対する評価です。劉禅を考える時、どうしても私は日本の明治維新における長州藩の藩主を思い出します。藩主が有能だった薩摩藩に比べ、長州藩は藩主の事情で藩の行動が曲げられる事もなく、良くも悪くも(藩として)突っ走りました。蜀、という国も、三国の中では一番「目的に向かって突っ走った」国といえるでしょう。

勿論劉禅は長州藩主に比べれば「自分むき出し」の部分が多かったですし、時代背景がそもそも大きく違う以上、同列では論じられません。しかし、もし劉禅の臣下にもっと良い人材が多かったなら……最低限、蜀の幕を引くにしてももっと違った形で出来たかもしれませんね。……因みに(私個人としては)関羽とか張飛とか劉備とか諸葛亮とか、いろんな意味で出来の良すぎる人たちよりは劉禅の方が親近感がわきます(^^;。(06.10.23)

Mr,三国志 殿

武田勝頼と比べれば、充分「明君」であったでしょう。殷の紂王よりは断然酷いことはやっていませんし、あの司馬師を騙したのは彼だけです。それなのに、コーエーのゲームの評価は・・・・。あんまりじゃあありませんか。せめて、弓で的を射ることが出来たという記録から、武力44、前述の司馬師の事をふまえて知略34は有っても良いんじゃないでしょうか。07.1.22

D.D.junk

確かに武田勝頼のような「有能ゆえの慢心」とは正反対。戦国武将で言えば毛利輝元か徳川秀忠か、器を自覚して邪魔なプライドを捨てられる「凡庸ゆえの大器」ですね。このタイプは周囲の人間の出来が全て。そして周囲の人間がダメならばその責任を全て被って暗君呼ばわりされるのが皇帝の仕事。08.2.13

劉備が曹操の対談にて、曹操が天下の英雄の話をし「君と余だ」の発言に対し、雷が落ちたのに劉備はあえて怯え無能さを現した。それに対し劉禅も蜀滅亡後「蜀にいたときよりも楽しい」と言う(劉ソウみたいに殺される可能性も十分ありましたし)危機を乗り切る才能は親からちゃんと受け継いでいたととれる、と自分は考えてます。また、出師の表では涙を流したことから教養はある程度あるはず。

劉ソウと比べ殺されなかったことを考えると劉禅は有能と見られた、もしくは元蜀の将や民からはそれなりに評判が良かったはず(殺せば反乱・暴動の可能性があるため)。というわけで、平凡な一人の人間だったと思ってます。

コーエーゲームでの評価の低さがアレですが、劉ソウ・韓玄・よりも低いのはどうだろう…。民の人心を掴んでない韓玄よりは政治が、劉ソウはとても若く、蔡ボウにいいように操られたくらいですから武力・知略は劉禅が上まってもいいのでは…。全武将プレイでは呂布と共にかならず一回は使う、今では愛着のある人です。 08.2.13

バッジオ

まさしく劉備の子という感じがします。父と違うのは、お坊ちゃまであることと、孔明も嘆いたように質・数も含めて人材・配下にめぐまれてなかったこと。劉備は良くも悪くも乱世にもまれ、大きくなった男。さしずめ劉禅は「治世の劉備」といったところ?人を使いこなすことと、人を騙すことに関しての能力はあったんじゃないでしょうか?父の遺伝で。08.2.13

djoka

彼は父祖の地(幽州安楽県)に公となって還った。劉備は皇帝になったものの、父祖の地に還り先祖を祀る事ができなかった。結果的に彼は父の業を保つ事はできなかったが、祖先に対しては孝を成したと思う。08.2.13

安民

孔明やそのシンパに全権限を奪われ、更に政治中枢も成都でなく漢中に移されるなど、泣く子も笑い死ぬ傀儡皇帝。そいつらが全滅してようやく皇帝としての権限を取り戻したと思ったら酒と女に溺れて政治を混乱させ、数年で魏に降伏。

劉禅が名君なら、先帝は廃され、幼くして皇帝に奉られながらも反旗を翻す諸豪族を平定、蜀や呉といった辺境に反乱勢力を残したものの中原に安定をもたらした劉協は神様ですかね。08.2.13

隠し砦の三馬鹿

彼の事跡の少なさは、彼自身に特筆すべき言動がないというよりも(無論それもあるでしょうが)正史著者の陳寿があえて細かく記録しなかったという可能性もあるのかも知れないですね。実際陳寿にとっては直接の旧主ですし、色々と遠慮する所もあったでしょう。それに陳寿自身、晋朝の御世にあっても蜀への旧愛を忘れず諸葛丞相ファンでもあり続けましたから劉禅という人に対しては愛憎半ばする複雑な感情を抱いていたのかも知れませんね。

個人的な憶測になりますが、私が陳寿なら旧主劉禅が単なる暗君であったとしてもそれをそのまま歴史に残したいとは思いませんし、それなりの明君であっても三国を統一した晋の治世で「魏を(つまり司馬氏を)倒せず無念であった」とか「天下を統一できるかも知れない器量だった」とか史書には書けないよなあ〜と思います。あわよくば正史として認められたいという算段があったなら旧敵国の国主の記述なんて余計に微妙でしょう。孫家の暗君みたくどこから見ても恥ずかしくない、いやむしろ恥ずかしい暗君なら遠慮もいらないでしょうが。

私個人としては劉禅は「英雄ではなかったが、時代はもう英雄を必要としていなかったのでOK」という認識です。大義や理想を押し通して戦乱の世を長引かせ、兵士を殺し民に塗炭の苦しみを強いるという一面を持つ英雄達の烈しい時代はもう過ぎ去って、時は後漢末に出現した英雄達の後始末をする決算期だったのでしょう。そんな時代に英雄たらんと戦っても結局は姜維のような末路が待っているだけです。

それはそれで哀しくも忠烈なる美談として後世に残るでしょうが劉禅にその気はなかった、それだけの事でしょう。英雄の資質や能力があったかどうかは…多分なかったろうがあっても結局変わらなかったか蜀滅亡がより血生臭い形になっただけだろうと思いますね。演義やゲームでの評価もあれでいいでしょう。あれはああいうネタですから。08.2.13

三姉妹

劉備と諸葛亮達で築かれた国を劉禅の代で滅亡させたということですが、劉禅一人だけに責任を負わせるような方達の考えには賛成致しかねます。誰かのせいにしないとスッキリしないということですよね。作り話で劉禅像を更に悪印象にさせることには疑問を感じます。悪は悪、善は善とハッキリ分別させるのが中国のやり方だと思いますので、劉禅についての悪い印象全てには信用できません。08.2.13

劉禅LOVE

劉禅は降伏する際、棺桶を背負っていたとされています。すなわち劉禅は死を覚悟していたともいえます。劉禅は「命が惜しいから降伏した」というのは彼の事をよく調べていらっしゃらない方の意見では?08.2.13

無双天神

劉禅の降服という決断は、あの戦中にあっては若干尚早な気がしないでもないですが、結果としてみると一番賢明な判断だったと思います。最近良く見る「あの状況下であればいずれにせよ蜀滅亡は免れえず、劉禅としても無駄な犠牲は避けたいということで降服した」というのは後付の理由ではありますが、もしそうだったのならば尚更立派、といったところです。

しかし仮にそうであったとするとわからぬのが、なんで劉禅は戦争しっぱなしの姜維をほうっておいたか、ということです。姜維は蜀の中核を占める荊州出身者でも、また土着の益州豪族でもありません。上司の馬遵に疑われてやむなく蜀に降った姜維は涼州天水郡の人、言わば外野です。劉禅が政治的に姜維を孤立させることは、そこまで難しくなかったはずです。或いは、彼が姜維を諸葛亮と重ねてみていた、という推察も出来るには出来ますが、あまりにも小説的です。

この人は自分から何かをすることもなく、とにかく臣下に信任しっ放しだった猜疑心皆無の人ですから、結局この人が何を考えてたか、或いはどんな人だったのか、なんて史書からはどうにも察し辛いのです。となると中国人の心境として、「こいつが悪い!」と劉禅を攻撃したくなのは、むしろ当然といっちゃ当然の流れなのでしょう。まああの国の「死人に鞭打つ」姿勢からは、我々には到底理解し得ない「異常なもの」を感じますが(汗)。

ただ、ありとあらゆる面で皇帝劉禅よりも上の位置にいた諸葛亮が北伐を敢行し、その忠義をまっとうできたのは、劉禅に猜疑心というものがなかったからだと思います。そう考えると劉禅と諸葛亮のコンビは、劉備と諸葛亮のコンビ並みの名コンビといえるのかもしれません。08.2.13


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