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魏の五大将 泣く子も黙る闘将 |
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字(あざな)/文遠(ぶんえん) 生没年/169年〜224年(55才) 武器/槍 |
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能力検証 武 勇 ■ ■ 9 目立った一騎討ちは対張コウ戦くらいだが、曹操5将軍の筆頭に任じられただけあって、武芸の腕前は一流。合肥では、少数の兵で孫権の大軍を恐怖に陥れた 知勇兼ね備えた名将。自らは上に立とうとせず、常に分をわきまえて己の信じた主に忠節を尽した その優れた人柄は、曹操や関羽をはじめ多くの人物から認められた。赤壁以後は合肥、江南の地を任されていたが政治的な能力についてはよくわからない 戦 術 ■ ■ 8 知 略 ■ 7 カリスマ 7 人 望 ■ ■ ■ 8 外 交 ■ ■ 4 内 政 ■ ■ 5 |
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200 冀州 |
VS文醜(袁紹軍) |
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文醜に向かっていき、矢を放たれて1本はかわしたが、2本目を顔に喰らい落馬。徐晃に救われる |
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200 官渡 |
VS蒋奇(袁紹軍) |
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馬から叩き落とす |
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200 官渡 |
VS張コウ(袁紹軍) |
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50余合戦ったが勝負決せず |
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203 冀州 |
VS袁尚(袁尚軍) |
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3合ほどで袁尚押しまくられ、敗走 |
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204 ギョウ |
VSソコウ(袁尚軍) |
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矢を射て馬から転げ落とす |
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209 合肥 |
VS太史慈(孫権軍) |
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80合あまり闘うが勝負つかず |
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215 濡須口 |
VS凌統(孫権軍) |
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50合戦うが、勝負つかず退く |
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★通算7戦 3勝0敗3引き分け |
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三国志ファンが斬る!張遼評 |
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鍵屋 殿 |
何て言うか、”優等生”ですよね、この人。 |
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阿Q 殿 |
う〜む、欠点がないのが欠点かなあ。 |
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紫龍 殿 |
遼来来、遼来来、で泣く子も黙る!! |
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姜学 殿 |
蜀びいきの私めも張文遠殿の知謀、 |
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姜学 殿 |
蜀に仕えてほしかったでござる… |
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紫龍 殿 |
呂布に仕えたこと。欠点と言うか汚点だなあ。 |
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とらくろ 殿 |
何故、呂布に仕えていたのか??? |
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klu.rig.lam 殿 |
あたいは、呂布に仕えてたから好きなのですが・・・・(^_^; |
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哲坊 |
汚点とは酷い…(笑)。良いではないですか。呂布の「強さ」に惚れていたという経歴があっても、この勇将の経歴に傷がつくわけではなし…。 |
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香香 殿 |
呂布とは北方出身者同志気があったのかも。やたら義理義理している演義の彼よりも、呂布の面影がある『蒼天的張遼』が好きです♪ |
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功明 殿 |
関羽との敵味方を越えた友情は,何か熱いものを感じます。 |
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とびかげ 殿 |
魏将の中でも一番のファンが彼!でも呉の好きな人にはつらいかな。 |
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劉表 殿 |
ゲームの一騎討ちで必殺技がないのが欠点か。 |
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紫龍 殿 |
必殺技>そうそうコマンド入力にして、体力ゲージも棒グラフであらわして、2本先取制で…って違うゲームじゃないか!! |
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旬升 殿 |
「敵味方を超えた友情」・・・なんか、羊コと陸抗みたいですな。 |
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孟嘗君 殿 |
関羽との敵味方を越えた友情っていつごろ育んだのでしょうか。黄巾討伐のころかな?それとも育んでおらずとも出会ってすぐわかりあったりしたのでしょうか。前から何か釈然としないものを感じておりまして… |
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本綬宇守 殿 |
やはり張遼の才覚に芽が本格的に出たのは、曹操に抱えられてからですね。元は呂布の配下の高順に使われていたみたいですから・・・・ん、実は高順も優秀だったんでしょうか?(笑) |
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哲坊 |
呂布の配下の頃は、年齢的にも若かったでしょうからな。 |
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ゆう 殿 |
関羽と張遼の友情というか、そういうのって、もとは関羽が張遼に向かって「貴公ほどの優れた人物が何故呂布のような逆賊に仕えている」と彼の才能・人格を見抜いたことに始まり、呂布の処刑時に命乞いを行い、曹操の部下にしたことあたり、それと関羽が曹操のもとにいた時くらいでしょうか。ちなみにこの二人の友情って、正史には記述はないと聞いた気がします。関羽と徐晃も同様で。 |
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lee 殿 |
名将の教科書のような人ではないでしょうか?彼の本質を見抜いた劉備と関羽に人を見る目を実際に歴史に刻んで見せたと考える。 |
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陥陣営 殿 |
好き過ぎて、ゲームで曹操が没した後、君主に指名したことが… |
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げんじょ〜 殿 |
活躍した合肥の戦いが一番好きです。マンガでは、すごい強いしかっこいいので思い入れが強い人です。戦の上手さは、魏では勿論三国志の中でトップ10に入ると思います。 |
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沮授@tRTK 殿 |
対呉戦主将。徐州陥落戦にて討ち死にを覚悟する関羽を条件付きとはいえ、降伏させたためか演義にて魏将の中でも特に良く描かれているように思えます。(しかし、子の張虎は顔に墨を塗られたり諸葛亮に馬鹿にされたりと散々。(笑)) (02.9.1) |
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ハガネ 殿 |
張遼の本名は聶遼(じょうりょう)で、改名した理由は、漢の時代に匈奴(北方異民族)との交易を利用して匈奴をだまして陥れようとした聶壱(じょういつ)の子孫であり、匈奴からの復讐を恐れて姓を聶から張に変えたようです。(02.9.13) |
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Rju殿 |
関羽との仲、というのは、呂布処刑時に「素質を見抜き、助けてくれた関羽」というのと、逆に関羽が曹操に捕らえられた時、「桃園の誓いを理由に、生きる事を選ばせた張遼」という、互いに命の恩人であったという部分が関係あるんじゃないでしょうか? (02.9.24) |
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閻行 殿 |
呂布陣営にいた頃はまだ若年で高順の方が経験もあり、高順の方が能力は上だったと思います。呂布があと10年残っていたら、張遼も成長し、活躍したと思います。 (02.9.28) |
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六波羅文乃 殿 |
義理がたくて人気があるようですが、李典や楽進との仲違いのエピソード辺りから『蒼天航路』的「我が道を行く」性格だったのではと想像してます。私は優等生的イメージよりこっちのほうが好きですね。正史では仲違いについての記述がもう1件ありまして(「胡質伝」)、このときも諭されて仲直りしてます。こういう武将らしいさっぱりしたところもよいです。でもゲームでは優遇されすぎてるのでついつい彼よりちょっと能力の落ちる曹仁や張コウ、徐晃あたりをよく使ってしまいます・・・。(03.5.31) |
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風路 殿 |
私も張遼は非常に好きです。彼を芸能人に例えるならやはり“高倉健”をイメージせざるを得ません。無口で義理堅く、情が厚い印象ですね。(03.6.23) |
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頴娃 殿 |
私も大好きです。 しかし、武人としては有能ですが、流石にコーエーは優遇しすぎな気が。知力は70台前半、政治は40台、魅力は60前後 くらいで充分だと思うんですけどね。(03.7.22) |
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デンホー大臣 殿 |
優等生、人気という点では蜀の趙雲と共通していますね。「三國志1」を初めてプレイした時でもこの二人は特別光っていましたし、忠誠度も高いので敵として現れた時には苦労しました。彼のおかげで合肥の戦いで曹丕は死なないですんだわけですが、私は個人的に曹丕が嫌いなので、悔しさと張遼のかっこよさが混じって複雑な気分です。(03.8.18) |
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倭奴国王 殿 |
呂布のほうにも少し書いたけど、彼が呂布に従ってたのは「なりゆき」です。元々丁原の将で、同じ丁原の将の呂布(といっても呂布のほうがはるかに格上ですが)が丁原を殺して、その軍勢をそっくり頂いて董卓につき、今度は呂布が董卓を殺して、元々董卓が率いてた軍勢は李カクが、呂布と共に董卓についた軍勢は呂布が率いることになりました。べつに彼の意思でそうなったわけではないんですね。 会社が合併したり離れたり、上層部でクーデターがあったりしたからといって、社員がいちいち腹詰めてたらいくつ命があっても足りないでしょう(笑)。最終的に「株式会社曹魏」に乗っ取られて、前の社長はクビになったけど、自分は採用されて重用された、ってところでしょうか。そんなわけで、乗っ取った側(曹操)の旧臣とはあんまし仲良くなれず、けっこう孤独だったと思いますよ。だから関羽と仲良くなったのかも(笑)。(03.11.30) |
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岳狼 殿 |
倭奴国王様の補足です。張遼が呂布に従った理由は、同じ并州北部出身であることが大きな理由だと思われます。言葉や文化、食べ物が同じですから。そして短期間にせよ、呂布と同じ丁原の元部下であり多少の顔見知りであった可能性もあります。正史によれば張遼は曹操以前に、丁原・何進・董卓・呂布と4人の主人に仕えています。この理由は奴国王様のおっしゃる通り成り行き上、主人が変わっていったにすぎません。 まず并州刺史丁原に召し抱えられた張遼は、兵を引率して都へ上るように命じられます(前後の事情から考えて、丁原はこの役目をやらせるために、張遼を召し抱えたとも考えられます) 都に着いた張遼は、大将軍何進に地方に出て兵を募集してくるよう命令を受け、都をあとにしました。しばらくののち、募兵をした兵隊を引き連れて都へ戻ってきた張遼ですが、そのころすでに何進は宦官達に殺されており、董卓が新しい実力者となっていました。せっかく集めた兵隊を解散する訳にもいかず、かといってこれらの兵を自費で養ってゆく財産もない張遼は、新実力者の董卓の傘下に入ることに、ためらいは無かったと思います。当時はまだ、群雄割拠の時代ではなかったですし、内外の官職がかろうじて生きている時代でしたから。 董卓傘下で張遼がどのような地位にいたかはわかりません。董卓直属の下士官だったかもしれませんし、呂布の配下に付けられたのかもしれません。前者であれば、董卓没後に呂布についたのは、冒頭に述べた通り、同じ并州地方出身者である呂布を頼ったと考えられます。後者なら、張遼が呂布配下の部将として登場するのは当然の成り行きでしょう。なんにしても、平社員〜課長クラス(当時の張遼のような、一部将クラス)は社長が変わったり他の会社に吸収合併されたりしたところで、どうのこうの言える地位ではないんですよ(泣) なお張遼の姓についてですが、正史によると張遼は漢代のジョウ壱の子孫であり、ジョウ壱が受けた匈奴からの怨恨を避けるために、張遼自身が姓を変えたように読めます。しかしジョウ壱が匈奴から恨まれたのは張遼が生まれる何百年も前ですので、今さら怨恨を避けるために姓を変えたとは考えにくいのです。ですから姓を変えたのは、ジョウ壱その人かその子や孫など、ジョウ壱に比較的近い人ではないでしょうか。また、張遼が姓を変えたのが事実とするならば、その原因は先祖のジョウ壱に起因するものでなく、張遼自身に何か不都合があったと考えるべきでしょう。(03.12.30) |
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雑巾賊 殿 |
一番上で鍵屋さんも書いているけど、ホント、三国一の学級委員長(笑)。スポーツ万能、頭脳明晰、品行方正、周囲に敵ナシ。義理堅く控えめで、いったん戦えば『ライライ♪』って、歌にもなるし。でもね...つまんないんだよなあ...。どっかひとつくらい、バカなところがあっても。たしかに趙雲も似たような感じなんだけど、彼はどっちか言うと、『ちょっとお勉強もできる体育会系』で、遼先生ほどアタマ良さそうじゃないし。ちょうど、どっかのスポーツ大会でやたらと強いやつが居てそいつに歯が立たずに敗れて、『でもアタマは俺のほうがいいや』と思い込んでプライドを保とうとしたら、そいつが東大大学院生だったと(笑)そんな感じ。で、『凄いね』とヤケになって褒めると至極まじめに恐縮されたりして、もう尊敬するよりほか、こっちには選択肢がないじゃん!! 立つ瀬がないんだよね。面白くないなあ...(哀) (03.12.30) |
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曹操親衛隊 殿 |
呉が揚州から侵攻できなかったのは、彼が合肥を守っていたからではないでしょうか。わずか800騎で敵陣に突っ込むなんて、すごい勇気だと思います。三国志中でも屈指の名将だと思うのは、僕だけではないはず。(03.12.30) |
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甲斐之虎 殿 |
丁原に「武力」を見出されて士官し、其の死後に丁原の有力部将だった呂布の組下に流れ、呂布敗死後は曹操軍に吸収されただけという、単にサラリーマンチック(職業軍人的)な生き方をしてきただけに過ぎない。結局、彼にとって曹操以外は、ただの「雇い主」止まりだったのだろう。張遼、関羽の間には、実際に友情というものがあった。契機は劉備と呂布が手を組んだ時で、当然この頃、両陣営間で交流があり、張遼と関羽は知り合った(はず)。その後、紆余曲折を経て、関羽が曹操の客分となり、官渡では前哨戦の白馬津で共に先峰を務めている(おそらくこの頃に徐晃等とも親交があったと思われる)。 |
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まさ 殿 |
合肥で800の兵で孫権を急襲した時も好きなんですが、どちらかというと太史慈に大量の弓を浴びせて討ち取った戦の方が、いかにも智勇兼備という感じで好きです。(04.3.9) |
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安寿 殿 |
どうして、この人はこんなにも私を魅了してやまないのでしょう・・・。この人のことを考えない日は一日もありません。やはりこの方の一番の活躍の場といえば合肥でしょうな。八百の兵で10万の孫権軍に奇襲をかけるなんて、このお方でなければできないことでしょう。しかも孫権をギリギリまで追い詰めるとは・・・。真田幸村顔負けですな。立場的にはなんか張コウと対照的な気がします。だって、蜀のライバルが張コウだとしたら、呉のライバルは張遼ではないでしょうか?少なくとも私はそう思っています。あと、演義での性格のよさが大好きです。本当は人との折り合いが悪かったようですが、こういう時私は絶対演義を信じます。私は知勇兼備、高潔、品行方正な彼が大好きです(できたら才色兼備でもあってほしい)。(04.10.3) |
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哲坊 |
それだけ張遼という「人物」が好きになったのなら、もし品行方正ではなくても、才色兼備でなかったとしても、愛してやって欲しい気がします(笑)。武勇や事跡だけでも、好きになる要素は充分にあるのですから…。(04.10.3) |
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どよどよどよ 殿 |
泣く子が黙るってどんな顔なんだろう。怖い系だったら例えば顔がラオウだったら。多分泣く子がもっと泣くと思います。私も泣きます。怖いから。おそらく張遼はギャグ系の顔だと思います。タモリ氏は語る「女優や俳優は顔見ただけでスカウトするけどお笑いは実際に芸を見るまではスカウト出来ない。でもウド鈴木だけは顔を見ただけでお笑いにスカウトできる」。見ただけで笑える=泣く子も黙るの法則により張遼の顔は一目見て笑えるウド鈴木系の顔であろう。 (05.1.12) |
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哲坊 |
「遼来来!」(張遼が来るぞ!)と聞いただけで呉の子供が黙ったのは、顔を見たからではなく(敵の武将の顔は、実際に戦場で見た人にしかわからないでしょうし)、それだけ張遼の武勇が凄いので「泣いていると見つかってさらわれちゃうよ」と大人に聞かされたからです。秋田の「なまはげ」に通じるものがありますな。確かに本当に怖いときって、泣くどころじゃないかもしれません。中国人はとにかく話を大袈裟にするのが好きだから、まあ本当かどうかは知りませんが…。でも、顔の話は面白いのでOKです(笑)。 (05.1.12) |
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Hiroki 殿 |
彼が呂布軍に入ることになったのは成り行きだと自分も思いますが、その後呂布の最期まで付き従ったのは、若き軍人であった彼が、呂布の個人的武勇、騎馬戦での用兵術の強さに引かれ、憧れたからだと思います。曹操軍に入ってからも、戦場での勇猛果敢な所はやはり呂布を彷彿とさせます。呂布の武を継ぎ、そして知略を学んだ戦場の鬼神2代目!といった印象を自分は持っています。 遼来来!で泣く子も黙るのは、合肥の戦での彼の恐ろしさが呉の人々の心に残ったのと、彼のような人がいるかもしれないので油断は禁物、と呉の人々が常に自分たちに言い聞かせることの一部として子供に遼来来!と言っていたのではないかと思います。(05.3.18) |
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まーちゃお 殿 |
張遼好きの人が多いようなので恐縮ですが彼は結構傲岸不遜、人間関係においては多くの問題があったようだと言われてますね。その辺はややもすると自信過剰に見える関羽とウマが合ったのかな?好意的に見るなら両者とも孤高の人なのでしょうかね。その用兵、統率能力に関しては疑うべくもありませんが、兵卒に対して高圧的というかやや恐怖政治じみたとこは個人的には呂布とかぶる部分もあるのですが、それは人それぞれのやり方個性というものがあるので僕は戦果を上げてる人に対してその手段を批判する気はありません。 ただ個人的には誰かに仕えていたことや、あるいは一騎討ちで敗北経験があることを汚点とする見方には賛成できないのですが・・・。人生完璧な人ってのも面白くないし、なんらかの失敗を通して人間成長するものですから。股間に矢を受けてその傷がもとで無くなったという伝承は、もし本当なら男として非常に同情するとこですねえ。(05.5.22) |
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無双天神 殿 |
主君(曹操・曹丕)が相当歪んだ人物であるのに対し、有名な魏将は職人気質でいかにもな職業軍人。そう考えると呂布の下にいた北方出身の張遼は随分と華があるのでいいですね。呉の虞翻や甘寧と較べるとまだ性格や精神面ではまともな人ではないでしょうか?(05.11.12) |
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カンヌ 殿 |
軍略もさることながらこの男にあって他の武将になかったものは度胸でしょう。800で10万に奇襲。10万の軍にとってこれほどの戦力さがあるのだから奇襲など考えていない。それをやってのける度胸があってこの人はほかの武将より優れていたのだと思います。 少し関係のあるようなないような話。「蒼天航路」でこの人「呂布と関羽」の一騎打ちを見て武器を青龍刀にしたと言っていました。その以後も(鳥丸族戦など)同じ武器を使っていたくせにあの有名な合肥だと・・・「武器変わってんじゃん!?」(かっこいいからいいけど) (05.12.26) |
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峰徳森山 殿 |
合肥での戦功は素晴らしいですね。地理的に言えば呉に接する最前線で(蜀で言えば漢中、荊州)、ここを奪取されたら魏の戦略上、非常に危険な状態に陥ったと思います。この時期、曹操自身は張魯討伐に大軍を率いて出征中で援軍も期待出来ない状態であるにも関わらず、合肥守備の為に与えられた兵は僅か七千。 普通、七千の兵で孫権軍の総攻撃に当たれと命じられれば、守備に徹して猛攻を凌ぐ方を選択する所を、逆に奇襲戦法で散々撃退した上に十日間の包囲に屈せず、孫権軍を撤退させ、さらに追激戦を展開し孫権捕縛寸前の大勝利を収めてしまうのが凄いですね(しかも合肥攻略に孫権が動員した兵力が何と十万でしたから)。後に曹丕の代になって孫権が兵を動かしたので彼は海陵に駐屯し侵攻に備えたが病を患っていたみたいですね。 しかし孫権は合肥での、あまりにも痛すぎる敗北が身に染みていた為か諸将に「張遼は病ではあるが油断してはならぬぞ」と命じたといいます。この戦いでも病身ながら、あの呂範を撃破する所が凄すぎます。彼こそ魏随一の対東呉のスペシャリストであり、五将軍筆頭の名に恥じない人でしょう。合肥での活躍から魏建国の功労者というよりも魏の救世主という印象を抱きますね。06.10.23 |
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今典厩 殿 |
800騎で10万を蹴散らした、魏側の記述なので誇張はあるかもしれませんが凄まじい武勇です。魏は実力主義と言いつつ張遼が前将軍止まりであるから限界はあるようですね。同僚と仲が悪かったりしたので、中央に出ても讒言されて失脚、斬首もありえるかもしれません・・・皇族の曹洪ですら安泰ではないのですから・・・ 07.1.22 |
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李嗣源 殿 |
後世の名将で関羽、張飛に例えられている人は多いですね。ほかの武将では自分の知る限りで晋の陶侃が曹操と陸抗に、唐の李存孝が張遼と甘寧に例えられているぐらいでしょうか。ですから三国を代表する猛将は蜀が関羽、張飛、呉が甘寧、魏が張遼と個人的に思ってます。(勝手ですけど) 07.1.22 |
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子連 殿 |
彼は職人です。与えられた仕事は期待以上にしっかりこなし、けじめもある。それ故に、何度も主君が変わろうが上手くやっていけました。おそらく曹操に下ってからも軍派閥とは無縁だったと思われます。しかも、軍を率いて各地で活躍する将軍の器を持っています。それはもう本当に様々なところで陣中にいます。将軍としての器は、関羽にも劣らないのではないでしょうか?更に言えば、関羽に比べて謙虚であり、義に富みます。彼はまさに「バランスのいい人」だったのでしょう。 私は、彼の真の良さは「泣く子も黙る猛将」でも「武を探求する武人」でもなく、多くの君主を渡り歩いた、その「バランスの良い人間性」だと思っています。曹丕、曹操、呂布、董卓、可進、丁原、これだけいろいろな君主とよく上手くいったものです。もちろん劉備のような渡り歩き方とは違います。派手さはない?ですけど、自分の一番好きな人物です。07.1.22 |
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