観戦報告書 特別編
2000年3月26日 川崎球場ファイナルシーン

   

2000年 3月26日(土) 川崎球場(デーゲーム/オープン戦)
 観戦人数/4人(3塁側内野特別席) 

1
2
3
4
5
6
7
8
9

ロッテ

0
0
1
4
6
0
0
8
3
22

横浜

1
3
0
0
1
1
0
0
0
6
 

勝投手

黒木

セーブ

 

負投手

斉藤隆

本塁打

堀2本 バリー2本 初芝2本 小坂2本 立川 福浦

盗塁

波留

 
川崎球場は、大袈裟にいえば、私が最も野球を熱心に観ていた頃の、
まさに青春時代を捧げた球場といっても差し支えない、聖地である。
その球場が、老朽化を理由に2000年3月をもって閉鎖、取り壊されてしまう。
この世から、姿を消してしまう。(後で、グラウンドだけは残ると確認)

2ヶ月前から、最後の日程を球場に問い合わせ、フリーマーケットや
ネット上の有志の方々による、さよならイベントを知り、
実に9年ぶりに、2度にわたって足を運んだ。
最後は、社会人野球にでも行って、ひっそりと球場に別れを告げようと
思っていたが、その矢先に、横浜vsロッテという、かつてここを
フランチャイズにした両球団同士の試合が、オープン戦とはいえ開催されるという
情報を聞いた。主催者の粋なはからいに感動した。
当時、ロッテオリオンズのファンクラブに入会していたため、会員証を
見せれば内野自由席の入場は無料だった。
だから、ほとんど金を払ってチケットを買った記憶がない。
しかし、今日は違った。
前売りで入手した2800円の特別席券を握り締め、川崎駅へ向かった。

驚いたことに、球場から川崎駅方面まで長蛇の列。
伝説の88.10.19の時以上の人出に困惑。
(あの時は試合の途中から人が集まり始めた)


川崎駅に、仲間と待ち合わせたのが11時半。
球場に入れたのが午後1時。駅から徒歩15分の川崎球場も、
この日は実に遠く感じた(笑)。
どう見ても満員。でも発表された観衆は、21000人。
当時は30000人と発表していたのに、最期ということで、
ついにその実数を明かしてしまったか?(笑)。
(耐震性を考慮して発券数を抑えたともいうが…)

試合前にはセレモニーと、元・大洋のエースであり川崎球場で11年も投げた
平松政次氏と、元ロッテの内野手であり現・マリーンズの
山本功児監督自らが始球式で対決。
私は、平松氏はリアルタイムで観たことはないが、オールドファンには、
これだけでも球場に来た価値がある位感慨深い演出だったのではあるまいか。

試合は、ロッテ・黒木、横浜・川村と、エース級同士が先発。
オープン戦とはいえ、開幕へ向けての最後の調整だ。
打線も、ほぼシーズン中と変わらぬメンバーでプレイボール。
黒木は故障から復帰したばかりで、いまいちピリっとしない内容だった。
1回に1点、2回に3点を献上。対する川村は2回をパーフェクト、
3回は満塁とされるが、1点で切り抜ける対照的な内容。
球場最後のメモリアルゲームも、
横浜の一方的な試合になってしまうのではないかという不安にかられた。

4回、横浜の投手が、去年の被本塁打王・斉藤隆に代わると、形勢は一変する。
88年にロッテに入団し、デビューをこの球場で飾った8番のベテラン・堀が
1死から逆転満塁ホームランを放つ。
川崎球場でプロ入り第1号を放ち、本拠地最後の年(91年)
シーズン20本塁打を放ったこともある男に、球場が力を貸したのかもしれない。

続く5回から、ロッテの選手による「川崎球場惜別 花火大会」がはじまる。
先頭の2番打者、小坂がセーフティバントで出塁すると、
前の打席で併殺に倒れたバリーが、右翼席へ2ランを叩き込む。
続く石井が2塁打を打つと、もう止まらない。
続いて、これも川崎時代からの主砲・初芝が2ラン
堀がセンターへ大きな2打席連続のホームラン、平井のタイムリーで一挙6点。
5回、6回に1点ずつ返されるが、8回に再び大爆発。
代わったばかりの森中から、小坂、バリー、立川がホームラン
初芝、福浦がタイムリー、そして、おまけに小坂が1イニング2本目となる
ホームラン
で一挙8点。(小坂と横浜の石井琢郎は仲が良いようで、
2塁を回ったところで苦笑いしながら手を合わせていた)
9回にも初芝、福浦が1本ずつ花火を打ち上げて、川崎球場に別れを告げた。

今年から横浜へ移籍した小宮山、伝説の10.19の悲劇の主人公を演じた
阿波野の登板は残念ながら無かった。
(小宮山は、試合後にこっそりグラウンドに出て来て、ロッテファンに挨拶した)
ロッテの応援団も素晴らしかった。まるで昔に戻ったかのような
「魔法使いサリー」や「ゲゲゲの鬼太郎」のメロディなどといった
オールドテーマを流し、オリオンズ時代のファンにとってはたまらぬ演出で
楽しませてくれた。今のマリーンズの独特の応援も良いが、
この日ばかりは原点に返り、今のファンをも見事に一体化させたのは素晴らしい。

この日のホームランデータ

選手

状況

方向

相手投手

飛距離

4回1死満塁

右中間

斉藤隆

110m

バリー

5回無死1塁

斉藤隆

130m

初芝

5回1死2塁

右中間

斉藤隆

110m

5回2死

斉藤隆

125m

小坂

8回無死

森中

110m

バリー

8回無死

森中

125m

立川

8回2死1、2塁

森中

120m

小坂

8回2死

森中

120m

初芝

9回1死2塁

矢野

120m

福浦

9回1死

矢野

120m

1試合10本塁打は、公式戦ならば日本新記録という所だった。
狭い川崎球場だからこそ、というホームランもあったが、
横浜の打者には1本もホームランが出なかったのも不思議といえば不思議。
ロッテファンとしては、笑いのとまらない試合展開だが、
はっきり言って、普段ならばロッテは
こんなにホームランを量産できるチームではない。
川崎球場最期の試合というシチュエーションが、
このような試合展開を生んだのはまぎれもないところだろう。
もちろん、これだけボコスカ打たれた横浜の投手も言い訳はできないが(笑)

かつては大洋(現・横浜)も、川崎球場を本拠地としていたが、
なにしろ大昔である。「川崎球場は俺達の本拠地」という意識が、
ロッテの選手たちの方に強く作用したのかもしれない。
若い選手の中にも、社会人時代にここでプレーした思い出や、
観戦した思い出があったに違いない。



「テレビじゃ見れない、川崎劇場」
10年前、ロッテの試合が放映されることはほとんど無く、それを逆手にとった、
こんなコピーのCMが放映された。数々のドラマを作りあげた川崎球場は、
まさに「劇場」というにふさわしい舞台だった。
そして、最期の試合でも見事なドラマを、選手たちに演じさせたのである。

ドーム球場全盛の今、大阪、日生、平和台、後楽園、そして川崎…
次々と古き時代の名物球場が取り壊されていく。
嗚呼、今こそ別れの時。

ありがとう、さようなら。川崎球場…。

 

選手、OBたちのコメント集

ロッテ・堀幸一
「ここには若い頃、つらい練習をした思い出がある。
 そういうのがあって、今の自分がある。僕がプロ入り初めての一軍の試合で
 ホームランを打ったのもここ。最後の試合で打てて、いい思い出になります」

ロッテ・高沢秀昭打撃コーチ
「閉鎖が決まった1月に、女房と2人で見にきました。
 自分のいい時も悪い時も知っている球場です。
 10.19でのホームランが今でも話題にのぼるのは嬉しい。
 今日はそれを思い出しながら試合を進めました」

横浜・阿波野
「今でも(10.19の時同点弾を放った)高沢さんが申し訳なさそうに
 ダイヤモンドを回る姿が忘れられない。甲子園でも負けたし、
 この球場でいい思い出はつくれなかったけど、1球の重みを、身を持って教えてくれた。
 僕の野球人生になくてはならない球場です」

横浜・小宮山
「(9回2死の小宮山コール)昔使っていたロッカールームの前で聞いていました。
 グラウンドキーパーとしてバットでも拾いに行けばよかったかな。

ロッテ・佐藤兼伊知コーチ
「思い出すのは10.19。遊撃手で出場して第1試合が4打数4安打、第2試合が3タコ。
 鮮明に覚えている。ラストでサードコーチをやれて幸せでした」

ロッテOB・落合博満
「あの球場は、雨の通り道にあったようだ。
 ほかの球場ではやっているのに、川崎だけ中止、ということがよくあった。
 自然の中の球場という気がしたな」

ロッテOB・村田兆治
「投手を断念しようとしたのも、復活したのも、引退を決めたのも川崎球場のマウンド。
 狭いから普通の感覚で投げると、スタンドに入ってしまう。
 おかげで他の球場で投げるときは楽だった。
 私の野球人生の喜怒哀楽がすべてつまった球場だった」

大洋OB・平松氏
「狭い、古いといわれたが、僕にとっては素晴らしい球場。
 144勝した球場が無くなるのは寂しいね」

(コメントは各社新聞より抜粋)

 

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