村田 兆治 背番号29  

広島・福山電波工高〜東京オリオンズ(1968)〜ロッテオリオンズ(1990)

その独特のフォーム「マサカリ投法」から繰り出す必殺のフォークボールは、分かっていても打てない魔球であった。ストレートも全盛期は150kmを超え、打撃練習時に落合博満のバットを2球で2本折った逸話も残る。ロッテが日本一に輝いた1974年は19勝を上げ優勝に貢献。

しかし82年、右ヒジの靭帯を傷めてしまい、再起不能の宣告を受ける。再起をかけて治療に挑むが良薬はなく、米国のフランク・ジョーブ博士を頼った。当時右腕にメスを入れることはタブーであったが、手術後に驚異的な回復を見せ3年後に17勝をあげ、見事カムバックする。

復活後、全盛期ほどの豪速球はなくなったものの、投球スタイルは変わらず、常に第一線で投げ続けた。89年には200勝を達成し、3度目の最優秀防御率のタイトルも獲得。90年(平成2年)10月、引退。通算215勝。

実働22シーズン
604試合 184完投 121交代完了 249試合当初 36完封勝利
215勝 177敗 25引分 33セーブ 23セーブポイント 勝率.548
打者13963 投球回数3331.1 3019被安打 304被本塁打
1144与四球 124与死球
2363奪三振 1200自責点 防御率3.24

最優秀防御率(75、76、89)、最多勝(81)
最多奪三振(76、77、79、81)ベストナイン(81)

 




伝家の宝刀「フォークボール」は、捕手が捕れずによく暴投となった。
しかし村田は暴投した後も同じ球で打者と勝負した。

(打者は西武時代の清原)
清原は、村田が次の日先発と聞くと、
興奮して寝つけないほど対戦を楽しみにしたという。
村田も真っ向勝負でストレートばかりを投げ込んだため、
全盛期の清原にはそれをよく打ち返されたが、
村田はムキになって悔しがった。
親子ほどの年の違いこそあれ、まさに男と男の勝負であった。

帰り着いたら独りの部屋 消し忘れてたテレビが騒ぐ
ビールをあおって何も想わず ただ眠ればいい
画面の中では臂を傷めて 再起不能といわれた投手
息子ほどに若い打者に 挑みかかってゆく…

河島英五「地団駄」の一節。
村田をモデルにした詩である。
あるテレビ番組で共演したとき、
河島が村田の目の前で披露したこともある。

 


サイン

 
200勝記念テレカ(1989年)

 


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